« 初詣・箕面勝尾寺へ山歩き 2012年1月 | トップページ | 2012年度総会 »

知床半島縦走 2007年2月~3月

Photo_9


林 孝治

期間:2007年2月27日~3月10日
参加者:林孝治(CL)、松岡紀子(山の会カランクルン)、菅野昭雄(ピトンの会、羅臼岳まで)

北海道の東部、オホーツク海に角のように張り出した知床半島。その脊梁山脈は知床岬から直線距離で35Kmほどの部分に羅臼岳(1660m)を主峰とする山塊があり、山脈は北東に向かって徐々に標高を下げて、標高300m以下のルサ川乗越に至る。
そのあと、再び高度を上げ、知床岳(1254m)を中心とする山塊があって、それを越えると知床岬に向かって高度が下がり、山は海に没する。標高は高くはないが、冬季はマイナス20度以下の厳寒となり、北西季節風をまともに受け、硫黄岳以北は無雪期の登山道もない厳しい山域である。
知床半島の冬期の初縦走は1952年京大山岳部によってなされた。このときは、知床岬に船で上陸して縦走を開始し、羅臼岳に向かって南下。途中、サポート隊の支援を受けて、完走した。
その記録を見た私はいつか、自分も厳冬期に縦走したいと思っていたのだが、いつの間にか月日が過ぎた。2006年、久しぶりに北海道を訪れ、その大自然を目前にしたとき、青春時代の精神の高揚が蘇り、このたび厳冬期に知床半島を縦走する計画をたてた。
起点となるオホーツク海側の町ウトロから、根室海峡側の町、羅臼とを結ぶ知床横断道路を登り、知床峠から分水嶺を辿って、知床岬に至る約50Kmの行程だ。でも、それだけでは終わらない。知床岬から根室海峡側の道の無い海岸線を約20Km歩いて人里に戻らなければならない。この海岸線は断崖が海に落ちているので、時には波打ち際をヘツリ、時には海中を徒渉し、時には断崖を高巻くという「海の沢登り」ともいうべき行程で、知床半島縦走の核心部はここにあると感じていた。
ウトロから知床岬まで5日、知床岬から羅臼まで2日とし、予備日を3日という計画を立てた。

2007年2月27日  大阪→ウトロ
林、松岡、菅野の三名は関西空港~女満別空港の経路で北海道に入り、バスで網走、斜里を通って知床半島基部のオホーツク海側の街、ウトロに行き、民宿に入った。
途中、夏には色とりどりの花が咲き乱れる原生花園は雪に覆われ、荒野の向こうに斜里岳が雪煙を上げ、また海岸線には流氷が押し寄せて寒々しい風景が続いていた。それでも今年の冬は暖かく、流氷の本体は20Kmほど沖合いにあるそうだ。
Photo_2

2月28日  ウトロ→C1(羅臼岳南東の標高950m地点)
宿のご主人に車で知床横断道路のゲートまで送ってもらってもらう。準備をしてスタート。
荷物は林が25Kgくらい、菅野、松岡は20㎏くらい。羅臼岳までは菅野が同行予定で、荷物を分散して、楽ができるかなと思ったが、できるだけ自分たちの力だけで完走するほうが、喜びも大きいだろうとの親切心か、自分が同行する間に消費する分量のガソリンボトルを1本だけを摂ってくれただけで、期待したほど荷物は軽くはならなかった。
知床横断道路はゲートから先も除雪してあり、圧雪状態で、冬期も維持をしているのかと思ったが、まもなく砂防工事の車両が数台、駆け抜けて行き、この先で工事をしているらしい。一台の車が止まってくれ、乗せてくれるよう頼んだが「(終点は)もうそこだから…」と言って去って行った。5~6分かと思ったが、30分ほどかかって、やっと工事現場に達した。工事の現場から先は、除雪は無く、2mほどの積雪があった。さっそく、スノーシューを付けて知床峠を目指す。しばらく知床横断道路を進むが、道は大きく迂回しているので、白樺の疎林にショートカットをする。知床峠が近付くと風が強くなり、寒くなった。
知床峠には立派な石碑があり、これが知床岬の灯台までの、最後の人工物だった。ここからは間近に羅臼岳を仰ぎ見るはずだが、厚い雲に覆われ姿を見せない。
知床峠から羅臼岳の東側斜面を巻くようにして羅臼平を目指す。吹きさらしで、寒冷な風が羅臼側から絶えず吹いている。幕営地を探しながら進むが、傾斜地の上、風をさえぎることができる適地が見つからない。そのうち、右下50m位の白樺の疎林の間の吹き溜まりに、適地を見つけ、整地をして幕営(羅臼岳南東の標高950m地点)。ここで、ザックのサイドに突っ込んでいたガソリンボトル1本(1リットル)が無いのに気が付く。ここまでは菅野も一緒なので、ガソリンをたっぷりもって来て、この先の縦走に必要が無いようなら、菅野に持って帰ってもらうつもりだったのだが、初日から節約生活を余儀なくされる。
風は一晩中、吹きすさび、テントのまわりに雪が吹き溜まって、用足しにテントの外に出るたびに除雪をしなければならない。

3月1日  C1停滞
風はいっこうに衰えず、羅臼岳も厚い雲の中。出発できるか何度も様子を見るが、状況は変らず、停滞とする。予定では、今日は全員で羅臼峠から羅臼岳を往復し、そのあと菅野はウトロへ下山。林と松岡は先を目指す予定だった。菅野は予約していたウトロの民宿に、今日は下山できず、宿泊できない旨を携帯で伝える。

3月2日  C1→C2(羅臼平)
やはり風はやまない。もう一日停滞か。菅野の下山タイムリミットを午前10時とする。この時間までに菅野が下山を開始しないと、明るいうちにウトロに着けないだろうし、途中でビバークすることになれば、帰阪の予定が狂ってくる。結局、菅野は羅臼岳あきらめて下山の準備をした。この時、山頂が見えてきたという。
こころもち、風も弱くなってきた気がする。よし行くか。菅野は下山し、私たちは大急ぎで、テントを撤収して先に進むことにする。
羅臼岳を巻きながら羅臼平を目指す。斜面は急になってきて、スノーシューを付けての登高、トラバースが難しくなってきた。スノーシューをはずし、つぼ足で進む。松岡は滑落に備えて片手ピッケル、片手ストックのスタイルとなり、最後までこのスタイルを通した。風も弱まってきた。急なルンゼの吹き溜まりに入り込み、腰までのラッセルとなって、ザックを置いてラッセルをする。やがて傾斜が緩み、しばらくトラバースして、羅臼平に到着。ここはオホーツク側から絶えず風が吹き抜けていく。岩陰に雪のブロックを積んで、今日のテント場とする。雪は風で飛ばされ、積雪量は少なく、しかも乾燥していて、軽いブロックしか切り出すことができない。折角、ブロックを積んでも、風に抗しきれず飛ばされることを繰り返し、何とか完成してテントに入る頃には満月が東の空に輝き、羅臼の街の灯りがまたたいていた。

3月3日  C2→C3
(ルシャ山手前のコル上部標高980m地点)
羅臼岳頂上付近は相変わらず、雲がまとわりつき姿を現さない。予定より二日遅れているので、羅臼岳は割愛し、先を急ぐ。羅臼平から三ッ峰(1509m)のコルへは直線的な登りとなり、クラストしているのでアイゼンを装着。
コルまで登ると、前方の山がはっきりと見えた。とりわけ尖って、格好の好い山は硫黄岳(1562m)だろう。振り返ると羅臼岳がだいぶ姿を見せてきたが、最初のキャンプ地付近は相変わらず雲が張り付いていた。雲が滞留する所のようだ。
コルからいったん下り、サシルイ岳(1564m)を越え、オカバケ岳(1450m)。頂上付近は大きな岩が積み重なっている。ここから眼下に広がる雪原に降り立ち、ダイレクトに南岳(1459m)を目指す。
Photo_3

この雪原を歩いている時、30m程後ろを歩いていたマッちゃんが「はやしさ~ん」と叫ぶ。何事かと思って振り返ると、二人の間を一匹のキタキツネが横切って行く。こんな厳寒の地に逞しく生きる動物に親近感を覚える。向こうもそうなのか? 10mほどの距離をおいて、チラチラ横目で様子をうかがいながら、しばらく私たちに並んで歩いている。2003年にヒマラヤで亡くなった榊原は、毛皮コートのデザイナーだったので、取っておきのコートを着て、道案内に出てきてくれたのだと思うと楽しかった。どこにでも、一緒に行きたがる奴だ。そのうち、私たちの前を横切って、斜面を登って、姿を消した。
南岳の東側を巻いて、知円別岳(1544m)へ。硫黄岳の噴煙が見え、時折、硫黄の臭いも漂う。ガスっている時は、ここで、硫黄岳に続く山稜に入り込まないように注意し、90度右折して、東に向かうというのが、ポイントの一つであったが、視界があり、問題なく通過。ここからは行く先がよく見える。ルートは下りとなり、ルシャ山(848m)を越えて、標高300m程のルシャ乗越まで下る(この乗越を源としてオホーツク海に流れる川がルシャ川で、太平洋側に流れる川がルサ川とややこしい)。このルシャ乗越付近は標高が低いので森林に覆われ、広い台地が広がっている。その先は徐々に高度が上って、森林限界を過ぎ、白い山稜が続き、その先のどっしりとした山塊が知床岳(1254m)だ。まだまだ遥か彼方で、それを越えても岬までの道のりは遠い。
東岳(1520m)からルシャ山の手前のコルを目指し、アイゼンを効かせてダイレクトに下る。最初は快適だったが、標高が下がると、ハイマツを踏み抜くようになり、抜け出すのにエネルギーを使い疲れた。ルシャ山を越えて風の弱い樹林帯の中に幕営したかったが、コルの手前に平らな場所があったので今日のテント場とした。

3月4日 C3→C4(P786の西稜上標高550m)
朝、起きると視界は無く、風が強い。昨日、視界の良い時にコンパスをルシャ山に合わせいたので、それを頼りに進み、コルへ下る。広いコルは風の通り道で、その上、ハイ松の地雷原だ。風に押され、踏みぬかない堅そうな雪面を選びながら、ジグザグに歩いているととんでもない方向に行ってしまう。絶えず、コンパスでルートを修正しながら進む。しかし、いつまでたってもルシャ山の登りにかからず、樹林の中に入り込んでしまった。コルから等高線沿いにルシャ山の西側を巻いてしまったようで、正確な現在地がわからなくなった。しかし、幸い標高が下ったせいか視界が広がり、一瞬、ルシャ山のピークが見え、進むべき方向がわかった。昨日、視界があって全体像が見えたのが良かった。
厚い木々の間に通り道を探し、右へ左へとルートを取りながら進むと行く手は切れ落ちて、谷へ下りている。この辺りの地形は広い樹林の平原が徐々に細くなってゆき、それが分水嶺の尾根となって、平原の脱出口になっている。切れ落ちた左手にその脱出口となる尾根が見え、リルートに成功した。そこからは尾根は細くなり、それを忠実にたどればルートを失う恐れは少ないが、灌木が多くわずらわしくなってきたので、樹間に見えたオホーツク側のルシャ川源流に降り立ち、ブッシュの少ない雪の尾根にルートを求めることにした。
ルシャ川源流では流れが出ており、飛び石で渡る。この辺りは幕営するのも快適そうで、テントを張ろうかと迷ったが、まだ時間が早いし、冬眠から覚めた早起きの熊が出てきそうで、もう少し進むことにした。登路にとった尾根は昨日、東岳から見た時も顕著なほど広く、ブッシュも少なく、登りやすく見えたのだが、実際には見た目以上に急で、地図では読み取れない、いくつかの小さな岩峰があり、それを巻いて登っていく。登るにしたがって背後に、昨日通過した知円別岳がせりあがってきて、その左に羅臼の町も見えた。標高550m付近の岩峰の基部の木々の間に適地があったので、今日のテント場とした。

3月5日 C4→C5(P862付近)
昨日に続いて、尾根を登っていくとモンスター(雪を被った木々)が建ち並ぶ平原状となる。この辺りで、再び正規のルートとなる分水嶺にぶち当たり、それがこの平原の脱出口になっているのだがよくわからない。右往左往してやっと脱出口を見つけた。ここは二重山稜になっていて、間の窪地には、夏は池が現れるのだろう。左の尾根は735ピークまで登らねばならないようなので、私たちは右側の尾根を進み、そのピークを巻いた。この辺りからは羅臼側の道路の終点、相泊(あいどまり)まで直線距離で、ほんの2Kmほどで、エスケープルートとして利用できる。この日は日本海を「爆弾低気圧」が北上していて、北海道は大荒れになるとラジオが告げ、実際、森林限界から上は、地吹雪だったが、万一、停滞を余儀なくされて、日程に余裕がなくなれば、このあたりから逃げればよいと、気が楽で、知床岬を目指して前進する。
P730の下りはナイフリッジになっていた。次のP862を越えたところ、白樺の疎林の中に適地を見つけ、昼前であったが今日の行動を打ち切り、低気圧の通過に備えることにした。丹念に、厳重にブロックを積んだ。風は南寄りになり、気温が上昇した。

Photo_4

3月6日 C5→C6(ポロモイ台地)
天気予報は、低気圧は北海道の西を通過し、カラフト方向に進んでいるとのことで、まだ道東も大荒れになると告げているが、ここではそよ風で気温もいままでより高く、北海道の広さを改めて認識し、出発することにした。
幕営地からはピークを一つ越え、コルまで下ったあと、知床岳の頂上台地に登って行く。このあたりは森林限界を越えていて、斜面はクラストし、急でスノーシューからアイゼンに履き替える。ひとしきり登ると傾斜が緩み、広大な雪原となる。その平原の縁に知床岳を中心とした山が並んでいる。知床岳のピークを割愛し、山並みの右端を通過して、知床沼を縦断して、快調にポロモイ岳(992m)を目指す。ポロモイ岳周辺は、右側はすっぱり切れ落ち、細い稜線に不安定な雪庇が乗っかっている。左側もクラストした急斜面だが、こちらしか通過できそうになかったので、慎重に長いトラバースをして、ポロモイ岳を通過。再び分水嶺に戻ると濃密なハイ松の地雷原。雪面を踏みぬかないように堅そうな雪面をさぐり、さぐりしてポロモイ台地に降り立つ。ポロモイ台地は上から見た時は、まだ陽があたって暖かそうで、ここにテントを張り、ずぶ濡れの寝袋を乾そうと思った。しかし、地雷原の通過に時間を食い、ポロモイ台地に降り立った時には、既に陽はポロモイ岳の陰に入ってしまって、今晩も、冷たい寝袋に入らなければならない。ポロモイ台地はだだっ広い雪原で、雪面はクラストして、風でツルツルに磨かれていた。ブロックを切り出しテント場を作って今晩の宿泊地とする。
寝袋はビニール袋に入れ、厳重に防水措置をしていても、寒暖差の大きいテント内では、結露して濡れてしまう。最近は、素材が良くなり、山行の期間も短いので、この不快感を味わう山行は久しぶりだ。炊事、食事を終え、寛いだあと、意を決してMSR(ガソリンコンロ)の火を落とすと同時に濡れた寝袋に潜り込む。しばらくは冷たさに震えているが、そのうち、足先から徐々に温まってきて、満腹感と疲れでいつしか眠りに落ちる。ひとしきり眠ったあと、起床時間の2時間ほど前には寒さで目が覚め、しばらくは寝袋の中で寒さに震えている。松岡もゴソゴソと動き、寒さで目が覚めているのがわかると、「もう起きようか?」と声をかけ、起床時間の1時間前には起きだして、ストーブに火を点け、やっと人心地ついて、また1日が始まるというのが日課だ。

3月7日 C6→C7(知床岬)
知床岬まで、あと16Kmほど。大きな山は既に越え、知床岬に向かって標高差800m程を下って行くだけで、今までの進行速度からすれば、今日は知床岬に到着するだろう。
低気圧が発達してオホーツク海に入り、冬型気圧配置が強まっているが、天気は快晴で、風は幾分、穏やかになり、高度が下がって樹林帯に入れば、風も気にならなくなる。
両側に海が広がり、岬が近づいたことを知らせている。右手には国後(くなしり)島が見え、台地の上にプリンを乗せたようなトロイデ型は爺爺(チャチャ)岳だろう。いつか訪れてみたいものだ。
次の小ピークまで登れば知床岬が見えないか、知らず知らずにスピードが上がる。でも、なかなか知床岬は見えなかった。ルートの断面図は緩やかに高度が下がっていくのだが、実際にはボール紙を切り抜いて作った立体地形模型のように、緩やかな斜面の次には垂直に近い段差があり、滑落すれば木立にぶつかるので、慎重にバックステップで下る場面も多くなる。また、樹林帯は生き物の息吹が感じられ、バサバサと音をたてて飛び立ったのは大鷲であろう。ヒグマとの出合い頭にも気を配る。
ウイーヌプリ(651m)を過ぎ、602mピークまで来ると、やっと岬が見え、松岡と二人喜んだ。ここから見る灯台は、やぐらの上に発光部だけを乗せた、ちゃちっぽいものに見え、二人で顔を見合わせた。昔、観光船から見た灯台とは姿が異なるように思った。
その時はもう、ゴールに着いたのも同然だと感じたが、次から次に緩やかな所、急な所が交互に出て来て、なかなか岬に近づかない。岬が見えてから4時間位かかって、やっと岬の台地に降り立った。エゾトドマツか大木の原生林は雪が緩み、気も緩んで、疲れも出て、ラッセルが辛かった。
Photo_6

さらに一段下ると、原生林が終わり、地面が露出し、雪がまばらに残る草原状の台地が広がり、100頭ほどのエゾシカの2~3グループが、我々の姿を見るなり樹林のほうに逃げて行った。鹿の糞だらけの台地を横切り、岬の先端まで行く。振り返ると一段高い所に堂々とした灯台が建っていた。最初にちゃちっぽく見えたのは、遠くて、見間違いしたのだとわかった。
灯台の直下にテントを張り、今夜の宿とする。テントの周りの雪はエゾシカの糞だらけだったので、飲料用の雪は海岸線に張り出し、鹿も近寄らない雪庇の上から採った。
灯台の光は回転しながらオホーツクの海を照らしている。オホーツクに向かい、来し方を振り返って感慨にふける。

3月8日 C7→C8(ペキンの鼻付近)
海岸沿いの道路は、羅臼から25Kmほど知床岬側の相泊(あいどまり)という集落までしか通じておらず、知床岬から相泊までの35Km程は断崖が海に直接落ち込んでいるところがほとんどだ。縦走が終わっても、人里に戻るには断崖と水際との間のわずかな幅の海岸を歩き、時には断崖をヘツリ、時には徒渉し、時には高巻きしなければならない。まさに「海の沢登り」というべきで、知床半島縦走の核心部はこの海岸歩きにあるとも言える。もう終わったという気持ちを振り払い、真のゴールを目指して出発する。国後島の真中から太陽が昇った。
知床岬の台地から、比較的傾斜の緩い所を探して50m下の海岸線に降り立つ。海岸といえば、砂浜のビーチをイメージしていたが、実際には、ラグビーボールと同じような大きさと形状の石がごろごろする海岸で歩きづらい。水際には流氷が打ち上げられ、流氷も波にもまれて、同じような形状をしていた。海岸の幅はせいぜい20m~50m位で、そのわずかな隙間に、夏の漁に使われる番屋が所々にある。崩れた番屋もあれば、衛星放送のアンテナを備えた新しい番屋も見受けられた。海岸線の背後には高さ50m位の断崖が続き、所々、ブルーアイスの滝がかかっているところもあった。
Photo_8

海岸線を黙々と歩き、最初の障害はカブト岩。先を偵察するが、波が打ち寄せ、徒渉もヘツリも出来そうにないので、高巻くことにする。手前に急なルンゼがあり、それしか迂回路はなさそうだ。クラストしているのでアイゼンを付け、念のためロープを結ぶ。今回、初めてのロープの出番だ。慎重にアイゼンを効かせて登り切ると、断崖の上の台地に出る。岬からは、ずっと鹿の足跡が続いていて、道案内をしてくれる。すぐに傾斜の緩い所を見つけて、海岸線に復帰。
再び、海岸線を歩き、まもなく念仏岩。ここも水際沿いに進めないか、先を偵察するが、行けそうもないので、再び手前のルンゼから高巻き。ここには古いロープが残っていたが、氷の下になっている所もあり、微妙なバランスを強いられた。登り切るとすぐに、向こう側の急斜面となり、残置のフィックスロープを頼りに海岸線に復帰した。
それからは、また海岸歩きとなり、ゴロゴロした岩や、大まかな岩に雪が乗っていて、岩と雪の境がわからず、岩の間にはまりこんだりして歩きづらい。
そのうち、前方に、海に飛び出した岬が見えてくる。「ペキンの鼻」とよばれる岬だ。近づくと手前に岩場があって、進めなくなった。このまま忠実に海岸線を辿っても、ペキンの鼻の突端を大周りし、さらに岩場が連続するようなので、このまま進むのは効率が悪い。手前から台地の上に上がり、大きく高巻いて、モイレウシ川辺りで海岸線に復帰するショートカットが正解だろう。腐った雪に足をとられ、灌木につかまり、台地の上に這い上がる。しばらく進んだ台地の上の樹林の中に最後のテントを設営する。

Photo_7

3月9日 C8→羅臼
今日は最終下山日だ。予備日を既に消化しているので、今日中に下山連絡を入れないと遭難騒ぎになるだろう。記録によるとモイレウシ川を過ぎてしばらく行ったタケノコ岩が最後の悪場で、そこを過ぎると単調な海岸歩きとなって、道路末端の相泊に到着する。悪場の通過に時間がかかったとしても、夜を徹してでも歩き通せば、道路に出て、大阪に下山連絡を入れることもできるだろうし、予約を入れてある、明日の根室中標津空港発の飛行機にも間に合う。寒さで早く目が覚めたこともあって、今日は日の出前に出発。
しばらくは台地の樹林の中を進む。そのうちペキン川の谷に突き当たる。迂回し、突破口を探す。まもなく、川に降りられる斜面に出会い、木々にぶらさがるようにして川面に降り立つ。そこは深いゴルジュになっていて、対岸への登り口は見当たらない。100mほど下流は門のような狭い出口の向こうに海が見えている。雪を被った飛び石伝いにゴルジュを突破して、門を抜けだし、海岸線に出た。しばらく海岸線を進むがすぐに、断崖に海岸は遮断され、それを突破できるか偵察に出る。岩をへつって、鼻の先を覗き込むと、岩壁を波が洗い、やはり通過できそうもないので、高巻くべく、松岡の所に引き返す。
岩から波打ち際に降り立ったその時、右足に激痛が走った。アイゼンをはいたままの足で、ラグビーボール状の石に乗りそこね、足をぐねってしまった。痛みは右足の第五指で、以前、反対の足の同じあたりを骨折したことがあり、それと同じような、息を継げないような痛さで、今回も骨折したのだろう。膝を抱えて、痛さに転げ回っている姿を見て、松岡が駆け寄ってきてくれた。痛みが少しやわらいで一息つく。
骨折していたら、部位は腫れあがり、再び靴を履くことが困難になるだろう。氷点下のところを、靴を履かないで歩くことはできないので、患部を確認したり、処置をしたりはできない。立ち上がって歩いてみる。右足に体重がかかるたびに激痛が走る。
そろりそろりと歩けば進めるかもしれないが、今日中に相泊までたどり着けるだろうか?おそらく難しいだろう。仕方がない、救助を求めることにした。
携帯電話は当然、圏外だ。無線機を取り出して発報する。メインチャンネルで「メーデー、メーデー(緊急、緊急)」と数回、発報するが、応答がない。北アルプスあたりでは、無線電波をキャッチした人にお願いして、警察などに救助要請を中継してもらうことができるのだが、ここは国後島に向かって開いた入江状の場所で、電波が人里には届かないのだろう。もう少し高い所に上がれば無線が届くかもしれない。ここで、坐して待つよりも、少しでも前に進む努力をすれば、自力で人里にたどり着けるかもしれない。
荷物を担いで、少し戻った雪面を登り始める。斜面は急だが、雪は柔らかいので、キックステップで登る。雪の上では痛みは少ない。岩峰の基部を巻き、台地に上がる。
台地上を鹿の足跡に従って、しばらく進むと海岸沿いに羅臼方面に向かう観光船のような船が見えた。大きく両手を振って救援を求める。船は気が付かないまま通り過ぎてしまった。
がっかりして、さらにしばらく進むと、先ほどの船が断崖の下に停泊しているのが見える。ダイビングをして、何かを調査しているようだ。そのうちに船はエンジンの音を高め、ゆるやかに前進して、私たちが再び海岸線に復帰するであろう、モイレウシ川の河口に近づいていく。また、河口付近で停泊するかもしれないし、乗っている人が上陸するかもしれない。チャンスだ。私たちが到着するまで待っていてくれ。モイレウシ川の河口に急ぐ。幸い、柔らかい雪面で痛みはそれほど感じない。
モイレウシ川の河口に降り立つと、船は河口から300m位沖合の入り江の出口付近に停泊していた。番屋の前の防波堤に登って、両手を振って、私たちの存在をアピールする。船のほうでも気がついてくれたようで、こちらのほうを見ている人が見える。入江の左側の岩壁沿いに船に近づく。干潮から満潮に向かう潮時で、岩壁の下の岩礁は波に洗われている部分もあるが、露出している部分もあって、そこを伝って船に50m位まで接近することができた。数人の人が甲板やキャビンから、こちらを見ている。それでも、波音やエンジン音に声がかき消され、私たちの声は届かない。緊迫した雰囲気に、船からはマイクで、「何か必要ですか?」と女性が聞いてくれる。ジェスチャーでけがをしたので、乗せてくれるように頼む。船のほうではわかってくれたようで、ダイビング用のデッキがある後部を私たちのほうに向け、後進で近づいてくる。私たちは少しでも近づくように、海水に脛くらいまで漬かりながら前に出る。岩礁が船の接近を拒んでいる。船は何度か角度を変え、接近を試みるが、折から波も高くなってきて、これ以上の接近は危険だ。船は反転して船首をこちらに向け、今度は船長らしい男性が「助けを呼んでやるから陸(おか)に上がって待ってろ!」と言ってくれる。
私は、了解したと大きく首を振って、エンジンのうなりをあげて去っていく船を見送る。入江の右側の鼻を回りこんで、船の姿が見えなくなって、私たちは河口に戻り、番屋の隣の屋根のある艇庫に入り、折から強まってきた風雪をしのいだ。
それから2時間ほどして、船かヘリのエンジン音が聞こえてきた。あわてて艇庫を飛び出し、しばらくして入江の入口に船の姿が見えた。船首が長く突き出し、操舵室だけがある磯渡しの渡船のようだ。立って操船している人の他、4人の救命具、ヘルメット姿の人が見える。羅臼町の消防の救急隊員のようだ。艇庫の前の船を引き揚げるスロープの所に船を付け、降りてきた救助隊員の手助けで、船首のところから甲板に這い上がった。私は操舵室の前に座り、松岡も乗り込み、すぐに船は出発し、スピードを上げる。入江を出ると波が荒くなり、波を浴びるようになる。毛布を勧められ、それを被る。それまで私は、右舷の海岸線がどのようなルートなのか観察していて、気が付かなかったのだが、左舷にはヘリが至近距離に並走しているのに初めて気が付いた。ヘリには海上保安庁の文字が認められた。救助隊員が収容を完了したことを無線でヘリに伝えると、ヘリは飛び去って行った。船は知床半島に平行に港を目指してスピードを上げる。今まで歩いていてきた知床の山並が見えるかと目を凝らすが、雲に覆われて山は見えなかった。本来なら、今日、歩くはずだった海岸の様子を見る。モイレウシ川河口からすぐのところにどんとそびえるタケノコ岩を過ぎれば、あとは問題のない海岸線のようだった。観音岩もわかったが、その部分も海岸沿いに通過できそうだ。
15分ほどで、船は港に到着した。おそらく、ここが相泊だろう。救急車と警官一名が待機していた。警官は、今回の山行の前に計画書を郵送したあと、電話で話をした羅臼の駐在さんだろう。「ご迷惑をお掛けしました」と挨拶して、自力で救急車に乗り込む。ベッドに横になるよう勧められ、羅臼の病院に向かう。横たわりながら救急車の窓から見上げる沿道の斜面に雪は無く、知床にも春が近づいて来ているようだった。
 
こうして、私の厳冬期知床半島縦走は幕を下ろした。羅臼町国保病院での診察の結果、幸い骨折はなく、亜脱臼とのことでギブスもしなかった。
その夜、宿で見たテレビでは羅臼町国保病院の赤字対策として、診療科目の削減や救急搬送の受け入れ中止がまもなく実施されることを告げていた。また、豊かな漁場の根室海峡の水揚げ港である羅臼も、最近は外国のトロール船による収奪漁業の影響で、漁獲高は大きく落ち込んでいるそうだ。そんな斜陽の羅臼の人々に、迷惑を掛けてしまったことを申し訳なく思った。
知床岬まで厳寒の知床半島を縦走し、核心部の海岸沿いの悪場をほぼ越えた。しかし、ゴールまであとわずかなところで、救助を要請し、船でゴールに到着してしまったのだ。この山行は成功か失敗かと問われれば、やはり完璧な成功と言えず、ならば失敗といわざるをえないのだろう。しかし、私の心の中では、青春時代に覚えた山に対する高揚感を再び味わうことができ、満足のできる山行であった。


« 初詣・箕面勝尾寺へ山歩き 2012年1月 | トップページ | 2012年度総会 »

2. 国内山行」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1289826/44003322

この記事へのトラックバック一覧です: 知床半島縦走 2007年2月~3月:

« 初詣・箕面勝尾寺へ山歩き 2012年1月 | トップページ | 2012年度総会 »