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デナリ 2012年6月

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【林孝治】
メンバー:林(隊長)、石川、栗田、スワミ(現地合流)

カランクルン・デナリ隊は、6月13日に発生した宮城労山隊の雪崩事故(行方不明4名、生存1名)に遭遇し、一連の支援活動ののち、石川、栗田の2名が登頂に成功しました。
事故に遭遇した登山者の生々しい心境を伝えるため、現地からの報告を、記事内容の日にちとは多少前後しますが、報告のあった日ごとにそのまま掲載します。(編)

(事故現場の画像と説明は記事末尾にある「jiko.pdfをダウンロード」をクリックしてください)

6月10日
会友の石川さん、栗田さんとアラスカのデナリに向かっています。デナリに先立って、シアトル近くにあるマウント・レーニアにいって来ました。約1500mのパラダイス(という地名)から、ホワイトアウトの中、緩い雪の斜面を登り、3100mのミュウアキャンプという所にテントを張って、翌日の山頂アタックに備えます。ところが、夜から風雪が強くなり、行動は困難。テントで風の止むのを待ちますが、翌日も風は吹き止みません。本命のデナリに向けて十分な予備日を取っていないので、結局、時間切れで下山せざるをえなくなりました。
そのあと、シアトルからアンカレッジに飛び、現在、アンカレッジに滞在しています。明日は、登山基地のタルキートナに入ります。

6月16日
12日未明、デナリの11キャンプ(3300m)の上部で雪崩があり、通過中の宮城労山隊の4名が流され、3名が行方不明になっています。隊長の扇等さんは20mのクレバスに叩き落とされるも、脱出することができ、ランディングポイントのレンジャーに知らせるべく下山している時にカランクルン隊に出会い、私たちの知るところとなりました。カランクルン隊では衛星電話で全国連盟に一報を入れ、林は支援するため、一時、タルキートナに下山しています。昨日、本日と捜索が行われましたが、発見に至っていません。明日も捜索が行われますが、明日、発見されなければ、捜索打ち切りになりそうです。

6月17日
日本の報道を見ました。4名行方不明ですね。扇さんから聞いたのは3名だったので、アンカレッジにいる扇さんの携帯に確認の電話しましたが、繋がらないので、宮城労山の新田理事長に聞き、行方不明者は4名と確認しました。そのあと、宮城労山の赤間会長、扇さんからも電話が来て、事故の発生日時も13日の午前2時10分頃だと判明しました(アラスカ時間=日本時間マイナス17時間。日本時間の昼夜逆転の同時刻からさらに5時間バックさせればアラスカ時間になります)。
扇さんは両手に凍傷を負っているが、切らなくてすみそうです。また、取材攻勢がすごいようです。
捜索の結果、さらに捜索するか打ち切るかの判断は、週末ですので週明けに持ち越されるようです。

捜索の打ち切りが決まったようです。家族の方もおいでになる意向がないようですので、扇さんも20日にアンカレッジを出る予定だそうです。
私たちカランクルン隊の事故のことを知るまでの行動は次のとおりです。
カランクルン隊は11日(月)午前中にタルキートナのパークレンジャーステーションでのブリーフィングを終え、エアータクシーのオフィスに行ってみると、現地の天候が悪く、BCに入る飛行機が飛んでおらず、しばらく待つことに。夕方に飛びそうだとのことで、18時にスタンバイし、19時頃、やっと飛び立つことができた。このフライトには私たちの他、バルト三国のひとつのリトアニア人とインド人という変わった組み合わせの2人パーティが乗り合わせた。
20時頃に氷河上のBCにランディング。
リトアニア人、インド人パーティは張り切って、早速、出発の準備をしている(白夜で、夜でも行動できる。夜は寒いがクレバスにかかるスノーブリッジは安定すると言われる)。彼らは、私たちと同じウエストバットレスから登頂したあと、カシンリッジも登るという。私たちは雨混じりの雪が降り出したこともあって翌朝スタートすることにしてBCにテントを設営した。
12日は雨、雪が絶え間なく降り、視界も無く、あっさり停滞を決定。デナリで雨とは…初めての経験だ。
既に出発したはずのインド隊は私たちの隣にテントを張っていた。天候がよくないので、出発を見合わせたのだろう。
13日、天候は回復。出発の準備をしていると、インド人(名前はスワミ)がやって来て、「日本人のチームに入れてもらえないか?」と言う。「??。お前のパートナーは?」と聞くと、「具合が悪いので、家に帰る。」ということらしい。
リトアニア人はどう見てもインド人よりタフでテクニックもありそうで、リーダー格だ。そいつが具合が悪いとはにわかには信じられない。仲たがいでもしたのだろう。彼は、自前の装備、自前の食料、燃料でやるからと言うのでOKしてやった。そうと決まれば全て自前では効率が悪い。利用できるものは我々の物を利用してもらい、その分荷上げに協力してもらう。
ソリに25kg位、背中に15kg位を背負って氷河上を進む。石川、栗田組と林、スワミ組でそれぞれロープを結び、広大な氷河を緩く登って行く。
夕方に、C1に到着。今日はここで幕営だ。
先行していた石川、栗田組はツェルトを張っている日本人(扇さん)を認め、「どこから来た? 登頂できたか? 津波の被害は?」と問いかけるも彼は最小限しか応えず、東北の人は口が重いなあと思ったそうです。
その日は、林は彼に会わなかった。話を聞いた林は、デナリをソロで、それもツェルトでやってのけるとは、さすが東北の人は寒さに強いんだな? と感心した。
翌朝は素晴らしい快晴だった。扇さんが石川さんや栗田さんと朝の挨拶を交わしているのが聞こえる。扇さんは「入山以来、初めての快晴です。」
私もテントから出て、「大阪の林って言います。宮城だそうですが、どちらの山の会ですか?」と挨拶した。
「朋友会です」
「すると赤間さん(宮城県連会長、全国連盟副会長)の会ですね。赤間さんはインドヒマラヤに一緒したのでよく知っていますよ。」
「すると、あなたは林タカハルさんですか?」と正確に私の名前を言い当てた。そして、彼は私に近づいてきて、「実は…」と初めて雪崩事故のことを告げたのだ。

6月18日
雪崩の事故を扇さんから聞いてからの事を書きます。だいぶ、私の思い込みや個人的な感想が入っていると思います。また、事実誤認があるかもしれません。取り扱いにご注意ください。

(14日昼頃、C1にて扇さんから雪崩事故の事を聞いて)
なんてことだ…、何故もっと早く言わん? それを知っていたら、暖かい食事や寝床を提供し、もっと早くレンジャーステーションや日本に通報できたろうに…。オールドクライマーは「自分のことは自分で処理をするのが山の掟」と教わって来た。人に頼ることを恥だと思ったのかもしれない。あるいは…クレバスから脱出した扇さんは、白夜で明るいが寝静まり人影のない11キャンプにたどり着き、一つ一つテントを回り、事情を話して協力を求める。居留守を使う人も居れば寝ぼけまなこで、応対してくれる人も居る。でも、事情を知ると、「俺たちには関係がない。レンジャーステーションに連絡しろ」と迷惑顔でふたたび暖かい寝袋に潜り込むのがオチだ。扇さんはそんなことを知っていて、11キャンプには寄らず、BCに急いのだろう。そしてC1で私たちに出会う。同じ日本人といえど、これから登頂を目指す連中。登頂で頭が一杯のやつがどこまで親身になってくれるやら…。疑心暗鬼なるのは当然だ。そんな訳で扇さんは昨日は私たちに事故のことは言わなかったのだろう。
でも、彼は私のことを知っていて私には話してくれた。私はその信頼に応えて何をなすべきか? 私の衛星電話は赤道上の衛星の軌道が低くて地平線の下になっているのかして、繋がらない。何をなすべきか? とっさには思いつかなかった。
扇さんは「現場を通過する際、何か遺留物があったら登山が終わってからでいいので知らせて下さい。」と言い、握手を求めてきた。私はそれに応え、BCに下って行く扇さんを見送るしかなかった。

それから、私たちはC2へ荷上げに向かった。歩きながら事故のことを考えていた。極北の高山、仲間がいっぺんに居なくなる。それを見つけてやれない、助けてやれない。自分だけが生き残った申し訳のなさ。先の大津波と同じ構図だ。その喪失感、無念感、寂寥感、絶望感、孤独感…。私は津波を経験しなかったが、自分もいつぞやそれに近いシチュエーションに置かれたではないか? なのに何故、扇さんに温かいお茶一杯あげなかったのか? BCまでの水や食料があるかと聞いてやれなかったのか? クレバスに落ちたと聞いたのに、怪我は無いかと気遣ってやれなかったのか? BCまで荷物を持ってやるとか、代わり連絡に走るとかできることはあったはずだ。タルキートナに戻っても日本への連絡や取材への対応、警察やレンジャーステーションの事情聴取、家族への応対、帰国のためのペーパーワークなど誰かが応援に来るまで一人でやらなければならない。
それよりも何よりも事故から2日以上経っているのに(その時は12日未明に事故が発生したと聞いていた)まだ、3人(その時は3人と聞いていた)も雪に閉じ込められたままで、そのことは扇さんと私たちしか知らないのだ。一刻も早く誰かに伝えなければならない。
そんなことを考えると居ても立ってもおれなくなり、荷物を途中にデポしてC1に戻った。
するとC1には大きな無線機を胸に吊るしたレンジャーがいて、どこから来た? 上の様子は? と聞いてきた。私は、事情を説明し、扇さんから聞いた事故の状況を話し、当人は昼の12時頃にBCに向けてC1を出発したと話した。すると、レンジャーは既に事故のことは知っていて、扇さんは既にBCに到着しているから安心しろと言った。私は日本に連絡したいので、衛星電話を貸してくれと頼むが持っていないという。
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その間、無線機から捜索の状況が入ってくる。デブリという単語を聞きとれた。デブリは英語だった。つまらない所で感動した。扇さんがBCに到着したのはせいぜい2~3時間前。通報してタルキートナから現場にヘリが到着するには1時間近くかかる。なのにこの配置。さすがレスキューシステムの整ったアメリカ、アラスカ、デナリだ。
まもなく、他のメンバーも帰って来た。私はこれから宮城労山隊のサポートにタルキートナに戻ろうと思うとメンバーに話した。メンバー2人とインド人スワミは、デナリは初めてだ。でも、私たちに前後してたくさんの登山隊が入山している。ルートはたくさんの標識が打ってあって明瞭だ。しかもスワミがいて英語でルートや天気の情報を得やすい。3人とも高峰登山や雪山の経験がある。チームワークも様になってきた。私が戻ってくるまでうまくやってくれるだろう。石川さんと栗田さんは同じ労山の仲間の支援に行くことに異存はないと言ってくれた。
スワミは41歳。若くて体力があり、現在はプログラミングの仕事をしているが、12月から登山ガイドの仕事をするそうで、初めての大きな仕事だと張り切っていた。
とにかく、日本に状況を知らせ、これからの事を考えよう。スワミにこのキャンプ地の他のテントに衛星電話を探しに行ってもらう。なかなか衛星電話を持っているチームは無く、やっと見つけても、案の定、露骨に断わるやつもいたが、一人、快く貸してくれる人がいたというので、一緒に借りに行った。その人はガイドで、セブンサミッツの本も書いていて、その取材だそうで、事情を説明し、今、お金を持ち合わせないので、下山してから払うと言ったが、要らないと言ってくれた。
それで衛星電話を借りて全国連盟に電話をすると、全国連盟にはまだ事故の一報は入っていなかった。全国連盟ではいかに対応すべきか即答できないので、24時間後にふたたび連絡することを約束し、カランクルン隊の隊員家族に我々は無事だということを連絡してもらうよう頼んで電話を切った。
そして、翌15日メンバーはC2に向かい、私はBCからタルキートナに向かった。

6月27日
カランクルンデナリ隊はこちら27日(水)16時、全員無事にタルキートナに下山しました。石川、栗田は登頂し、ビールで乾杯しています。詳細は後ほど。

6月29日
カランクルン・デナリ隊は現地、27日午後4時(日本時間28日午前9時)に登山基地のタルキートナに全員無事に下山しました。 私たちは予定通り、現地7月1日午前1時に発ち、7月2日夜に帰宅します。現在、出発までアラスカをドライブ中です。
タルキートナに下山するまでの林とカランクルン隊の行動は、次の通り。
宮城労山隊の捜索が打ち切られ、扇さんも帰国することが決まり、林はカランクルン隊に復帰すべく18日にタルキートナからBCに飛び、同日はC1泊。19日はC2泊。
20日はC3(11キャンプ)上部の事故現場脇を通りすぎ、長駆、実質的なBCになる14キャンプに到着し、我が隊のテントを見つけたのは22時でした(14キャンプの14は標高14,280フィートの14を意味します)石川、栗田、スワミの3名が当然テントにいるものと声をかけると、中から顔を出したのは栗田だけ。事情を聞くと、20日、17キャンプを目指し、高度順応に上がったが、天気が良いので、石川とスワミは「行けるだけ、行ってみる」と前進したが、栗田は定石通りやるので、14キャンプに戻ったとのこと。
二人がキャンプに戻ったのは21日午前8時、22時間行動だった。二人はフットボールフィールドと呼ばれる所、頂上まで1時間位の所まで行ったが、急に寒くなり、引き返したと言う。その日は、一日ゴロゴロして過ごし休養日になった。
今回は3人だけなので、テントは2張り準備した。14キャンプまでは1張りだけを使い、アタックの時に17キャンプに1張り上げれば足りると考えていた。
ところが、石川、栗田、スワミの3名が11キャンプに泊まろうとした時、設営中にテントを飛ばしてしまったという。従って、我が隊には今使っている1張りしかないことになるが、幸い、私が再入山する際にタルキートナで、2~3人用のテントを購入してそれに泊まりながら登ってきた。テントを飛ばしたなんて知らないから、そのテントはC3においてきた。それを持ち上げ、アタックにはそれを使うことにして、22日(金)はそのテントをスワミが取りに行くことになった。
その出発準備をしている時、スワミが途中で知り合った登山者から気象情報をもたらす。それによると24日(日)~26日(火)は天候が崩れ降雪があると言う。ちょうど私たちが頂上アタックを予定していた頃だ。27日が晴れてもすぐにアタックできるかは疑問だし、下山が帰国予定日のギリギリになってしまう。そこで、今晩24時に起床、23日午前2時に14キャンプを出発してワンディで頂上を狙うことを提案する。
私は前回、会友の山下きよしさんと二人で、ワンディアッセントをしたことがあるので、順応ができている人には可能である。今回、石川とスワミは頂上まで、あとわずかと迫っている。栗田も5000mの順応を獲得できている。私の順応を待っていたら登頂のチャンスを逸し、時間切れになってしまう。
石川、栗田、スワミの3人は私の提案に同意し、17時、まだ陽は煌々とする中、眠りに着いた。
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そして予定通り、彼らは22日24時に起床し、23日2時に出発。スワミは出発直後から調子が悪かったそうで、17キャンプで石川、栗田の二人から14キャンプに戻るよう言われた。泣いて「一緒に行く」と訴えている所に、レンジャーが来合わせ、スワミに17キャンプでツェルトを被って待つように、日本人二人はサミットに向かえと決を下したので、スワミは渋々それに従ったそうだ。
その日はキャンプ14から頂上方向を見ていると、晴天で、穏やかに見えたのたが、実際には風が強くて寒く、石川と栗田以外には他のパーティはだれも頂上に向かわなかったそうだ。
そして二人は23日16時にサミット。同ルートを下降し、途中でスワミと合流して、23日の23時頃、14キャンプに帰着した。
24日(日)は予報通り雪が降り、停滞かと思われたが、午後から青空ものぞいてきたので、14キャンプを撤収して11キャンプまで下った。スワミはまだ、時間があり、もう一回アタックするのでデナリに残るが、テントが無いので、11キャンプのテントを使うため私たちと一緒に11キャンプに下った。
25日(月)、スワミは14キャンプに戻り、私たちはBCを目指す。ホワイトアウト状態で、C2まで標識を頼りに下るが、C2の少し下で、次の標識が見つからなくなってしまった。しばらく待機するも視界は開けず、天地、前後、左右の区別もできない状態で、なんとかC2まで戻ってテントを張る。
26日(火)は視界が回復、フォーレイカ山も見え、楽勝でBC着かと思われたが、C1に到着する頃から昨日と同じようなホワイトアウトになり、BCに着いても、飛行機は来ないだろうからとC1泊。
27日(水)、やっと天気が回復し、抜けるような晴天の下、汗だくになりながらBCを目指す。気温が上がり、全員、クレバスに何度かはまり込むも大事には至らなかった。
どういう訳か、昨夜は石川、栗田の両名はお腹を壊し、頻繁にトイレに通っていたので、今朝は全員、食事を抜いて出発。ヘロヘロになってBCへの最後の登り。やっとBCへ登り着く。しかし、またどういう訳か、飛行機への搭乗場所が、従来の場所より約500m上流のハンター北壁近くに変更されていた。ガックリきたが、間もなく飛行機が到着するからと言うので、死力を振り絞って搭乗場所に到着し、間もなくやって来た飛行機に乗り込んでデナリから脱出できた。
通常なら14キャンプからBCは1日か1泊2日で降りられるところ、今回は各駅停車で3泊4日もかかってしまった。デナリはすんなりと私たちを帰してはくれなかった。

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