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宇江敏勝先生と歩いた熊野古道小辺路④

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翌日は7時に朝食、残ったご飯でおにぎりをたくさんこしらえて、7時45分に出発した。「昴の郷」まで車で移動し、8時に歩行スタート。今日の果無峠越えが小辺路のなかで最も登高差の大きいルートである。一同、心して取り付く。今日も快晴だ。
「昴の郷」の構内からトンネルをくぐり、

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旧国道にでて、十津川に架かっている吊り橋をわたる。この橋は、高さでは劣るものの、有名な「谷瀬の吊り橋」に次ぐような長さである。高札に「一度に渡れるのは5名まで」とある。貫禄十分のTさんは、自分に集まった皆の視線を撥ね返すように、トータルの重量ではなくあくまで人数が問題なのだ、とわざわざ強弁していた。歩調が同調するとかなり揺れる。人数説はあながち荒唐ではないのかもしれない。

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苔むした階段を登ると墓場の前にでた。きのう宇江さんにきいた話であるが、十津川では廃仏毀釈が徹底されたため、すべて神道になったという。そのため、当地方にはお寺がなく、観音堂がひとつあるだけだそうだ。墓石には戒名ではなく、本名が記されている。しかも、個人ごとに墓石が建てられている。
十津川村は、奈良県最南端の日本一大きな村であり、人口は4、500人、面積は琵琶湖に匹敵する大きさがあるが、面積の96%が奥深い山地であり、独特の風習、文化を育んで今日に至っているようだ。明治22年の大洪水で村は壊滅的な被害を蒙ったため、住民の半分、二千数百名が北海道の石狩平野に新天地を求めて集団移住したという。そのとき、彼らは神戸から乗船するため、年寄り、子供の手をひき、家財道具を背負って小辺路を越えて高野山へ歩いていったという。胸中の思いは、いかなるものであったろうか。北海道の移住先は、新十津川村と名づけられた。原野を切り拓く段階では、十津川村出身者は大いにその能力を発揮したらしいが、農作物の栽培の段階になると他の地方の出身者に次第に主導権を奪われていったらしい。そういえば、熊野本宮もこのときの大洪水で、社屋の多くを流され、大斎原(おおゆのはら)から高台の現在地に移されたのである。人間に恵みをもたらしてくれる大自然もときにはこのように牙を剥くのだ。ふと旧山古志村の“天変地異”のことが脳裏をかすめた。
今日の行程は、とくに石畳が多い。熊野古道の宣伝写真は、M本さんによると、ほとんどがこのコースで撮られているという。熊野古道の、その神髄を味わってもらおうと、M本さんはみんなを代わるがわる先頭を歩かせてくれた。

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しばらく急な坂道をのぼり尾根にでると、果無の集落にでた。現在も7戸が住んでいるという。最初の民家の庭先に、今朝民宿で見たポスターにでていたおばあさんがいた。軒下の吊るし柿を背景にしたり、縁側に並んだりして、各自おばあさんと記念撮影に収まる。

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嫌がりもせず、黙ってにこにこしながら応じてくれた。その素朴な表情と掃き清められた庭先の端正さが心に残った。眼下に十津川温泉の家並みが展望される。

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今は車道が通じているので生活の不便はないのだろう。尾根の上はなだらかな畑地や茶畑になっており、野菜には不自由しないようだ。はるか北方にはきのう越えてきた三浦峠が望見される。道端には、西国三十三番札所めぐりの小さな観音石仏が祀られており、丁石がわりになる。
車道から離れ、植林帯のなかの石畳道を根気よくのぼる。尾根にでると明るくなり正面にこれから越える果無の山並みがみえるが、かなりの高さである。広い平地にでた。天水田だ。水田が耕作されていた跡である。こんな高地まで耕作されていたのかと驚く。

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果無の峠を仰ぎながら小休止。われわれのいるところから正面の果無山脈までの間にはいかにも谷がありそうな感じをうけるが、尾根続きらしい。
暗い植林帯のなかのジグザグ道を喘ぎながらのぼると、観音堂に着く。10時25分。水場があり、トイレもある。観音堂まえの小屋の雨戸を繰ってなかを覗くと、なかからしけた空気が漂い出し、梁から何か吊るしてあるのがみえた。一瞬、ぎょっとしてあわてて雨戸を閉める。私の驚きの「演技」が効き過ぎたのか、皆、怖がって小走りに観音堂をあとにした。

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そこからえんえんと続く急坂をひたすらのぼりきると、ひょっこり果無峠に着いた。11時だ。右手から果無山脈の縦走路が合流している。ここが縦走路の終点だ。展望はない。峠には、宝きょう印塔があるが、原型を留めないくらい欠損していた。ところで、果無山脈の名の由来であるが、“涯てしない”という意味ではなく、ある伝説に由来していると、宇江さんの本に書いてあった。

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この山には「いっぽんたたら」という怪物が棲んでいた。一つ目、一本足のその怪物は、ハテ(12月)の20日になると出没して峠を越える旅人を襲って喰った、だからその日に限って人の往来もナシ(なかった)と。峠を越えるとあとはくだりであるから、少し早いが昼食にする。今朝、民宿で作ったおにぎりに各自が持参したおかずを菜にして食べる。意外と美味しかった。

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腹ごしらえをすませ、11時35分に出発し先を急ぐが、このペースでは、本宮到着が午後3時前後となり、温泉入浴がむずかしい情勢だ。川湯の大露天風呂入浴を楽しみに水着を用意してきた皆さんも多かったが・・・。
果無峠からのくだりはこれまでのくだりにくらべ、かなり急である。観音石仏の番号を数えながらどんどんすすむ。三十丁石を過ぎると、前方に蛇行した熊野川と本宮の町並みがみえだす。午後0時50分に七色分岐に着く。はるか左下に七色の集落が樹間に見える。ここから七色の集落へくだることもできるが、M本さんによるとかなりの急坂で危険らしい。七色分岐を見送ってさらにくだる。途中、下から登ってきた一人の遍路装束の男性と出会う。小辺路ではじめて出合った遭遇者だ。青年と思っていたが、聞けば60歳とのこと。今夜は十津川温泉の「えびす荘」に泊まり、高野山まで歩くという。
だんだん高度をさげてきた。何箇所か木作りのテーブルとベンチが設けられているが、前方の植林が茂ってきたためか、眼下に広がるはずの展望をまったく失っている。かなり飛ばして歩いたので、午後1時30分に国道168号線の八木尾のバス停におり立つことができた。ここから中辺路との合流点までは車道を歩くことになる。さっきまでの静寂な山道とは別世界だ。
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道の駅まで国道の歩道を20分ほどてくてく歩く。道の駅はあいにく定休日。

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そそくさと中辺路との合流点である三軒茶屋跡へ向かう。2時20分に三軒茶屋跡に着き、われわれの長い小辺路歩きは事実上終わった.

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あとは、この春歩いたばかりの中辺路を本宮までたどる。途中、朝日、夕日の眺めがすばらしいという展望所に寄り、本宮のある方角を見晴るかす。

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そして、最後の王子社であった祓戸王子跡のまえを通って、3時に裏手から最終目的地である熊野本宮の構内に入る。

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宮司の一人に拝殿の並び方についての説明をうけ、各自内殿に入ってそれぞれの思いで参拝をする。
3時30分に待ちくたびれていたチャーターバスに乗り込み、田辺経由で大阪へ向かった。温泉入浴はできなかったが、帰路の車中では、一同ビール片手で小辺路踏破の達成感に浸りながら、おしゃべりに花を咲かせた。とくに、M本さんは、わざわざ持参した古く錆びたガソリンコンロを示しながら、昔のテント泊山行の様子を説明してくれた。彼女の瞳は、まるで遠い青春時代の思い出のなかを漂っているようだった。みんなは、陶然として彼女の話を聴いていた。


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小辺路は、私がこれまで歩いた熊野古道の参詣路のなかで、もっとも素朴な山道だった。昔の小辺路は、山深い奥高野に住む人々の生活路でもあったが、車道が通じてからは寸断され、あるいはその少なからぬ区間が廃道同然となり、残された、路傍に苔むしている石仏と道しるべ、ところどころにある崩れかけた石積みと石畳、落葉におおわれたかすかな踏み跡等が、伝承とともに、かつてそこに人々の生活と信仰の営みがあったことを歴史の証しとして、今に伝えているにすぎない。それらを掘り起こしてくれる語り部とともに気心の知れた少人数の仲間と、歴史へ思いを馳せながら紡ぐ小辺路“御幸”は、普通の山行とはひと味もふた味もちがうものとなった。参加者全員の積善のお陰か、幸い全行程好天に恵まれ、晩秋から初冬にかけて奥深い紀伊の静かな山歩きを満喫することができ、こころに残る山旅となった。そして、一連の古道歩きを通じて、熊野の山の深さ、森の豊かさに、おそらくいにしえびとが抱いたであろう畏怖の念すら感じたのである。
(2005.11)


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