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宇江敏勝講師と歩いた熊野古道小辺路①

①宇江敏勝先生と熊野古道・小辺路を歩く
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2005年11月17日~18日        
坂田晃司 (写真提供)
11月17日
いくつもある熊野古道のうち、小辺路(こへち)は霊場高野山と熊野本宮を結ぶルートで、短期間で歩くことができるが、途中、1000m級の峠を幾つも越えなければならない険阻な山道で知られている。中世の貴族たちが往来した中辺路にくらべ、小辺路は近世以降にもっぱら庶民に利用されたといわれる。しかし、難路であるうえアプローチの足の便のわるい小辺路は歩くひとも少なく、今ではよほどの“通”でなければたどらない古道である。
今回の小辺路歩きは、熊野古道の語り部を自認する、山の会会員のM本E子さんが昨年から続けている熊野古道歩きの一環として企画したものであり、しかも地元の作家であり本物の語り部である宇江敏勝さんを帯同しての、少人数の贅沢な古道歩きである。これまで、中辺路、大雲取・小雲取、大峯奥駈道を歩いて、熊野古道の魅力にすっかり取り憑かれている私にとって、今回の小辺路歩きは逸することのできないチャンスであった。
全長72kmのコースは昔から3泊4日の行程で歩くのが普通であるが、私たちはこれを2回に分け、各1泊ずつで歩くことになっており、前半は高野山から十津川村の五百瀬まで、後半は五百瀬から熊野本宮までである。それぞれ、前半は野迫川村の北俣で、後半は十津川村の十津川温泉で、1泊する。


●2005年11月17日~18日 金剛三昧院スタート
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第1回目(11月17~18日)
第1回目の参加者は、山の会の会員、会友を中心に、日帰り組2名を含め、7名。チャーターした小型マイクロバスで午前7時30分に梅田を出発した。快晴の堺路を走り、予定より1時間も早い10時に、高野山に着く。    
標高800mの高野山の町の冷気に身が締まる。近くの寺院の境内をぶらついてから宇江さんとの待ち合わせ場所に集まる。そこに宇江さんが、軽トラックに乗ってやってきた。宇江さんの友人であり、今夜宿泊する民宿の「よしのや」の主人でもある吉野武文さんに送ってもらったとのこと。吉野さんは、下山するわれわれを大股でピックアップしてくれるそうだ。

宇江さんのいでたちは毛糸のケンチャン帽に毛糸のセーターを羽織り、12ハゼの地下足袋すがたである。首元にはマフラー、背には古い小型のザック、いかにも山仕事の途中、抜け出してきたような身軽な恰好だ。宇江さんの著作は何冊か読んでおり、自分なりにイメージができあがっていたが、外観は想像より小柄であった。しかし、人柄は、著作からうけていた印象どおり、言葉数が少なく、実直そのものだった。後すがたは若々しい。
金剛三昧院の石標のあるところから石畳の小路を東に入り、10時45分に小辺路歩きのスタートをきる。

きょうの行程は、標高1000mの薄峠を越え、いったん標高700mまでくだってさらに標高1200mの水ガ峰へのぼり返し、標高600m強の大股へくだるというアップアンドダウンのはげしいルートである。途中、高野龍神スカイラインと林道タイノ原線を歩く箇所があり、古道歩きにそぐわない面もあるが、山奥で営まれている生活と林業の便を考えると致し方ないことであろう。

歩きはじめて20分もすると大滝口女人堂跡のろくろ峠につく。昔、ここに木地師が住んでいたという。木地師は轆轤を使って椀や盆などの木工品をつくり、高野山へ供給していた。ここからなだらかな稜線を歩く。天気がよく、空気が澄んでいるので、たたなずく紀伊の山並みが遠くまで見渡せる。植林の枝打ちをしている人がいたので宇江さんが尋ねると一帯は高野山の寺領だという。歩きはじめて1時間で、薄峠に着く。
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途中、宇江さんに樹木の名前を教えてもらう。赤い小粒の実をつけたシモフリや、同じく赤い実をつけたソヨゴ。これはモチの一種で、木製ボタンの材料に使われている木だそうだ。コナラとミズナラの見分け方も教わる。ブナは高地に、イヌブナは低地に生育し、南紀ではクヌギは少ないそうだ。ブナの木肌に似たシデもあった。パルプ材というのは、固有名詞ではなく、パルプの材料になる雑木全体を指していう、などなど。


そこから30分あまりくだると高野マキの植林になり、石積みのある屋敷跡らしい平地にでた。下には谷川の音がしており、対岸の中腹には数戸の民家が見える。大滝集落だ。この屋敷跡には大きな屋敷があって宇江さんも当時のことを知っているそうだが、火事で焼失したらしい。厚さ5cmもある一枚板の焼けぼっくりが残っていた。やわらかい陽だまりで、弁当を開く。対岸は大股村へののぼりがせりあがっている。かなりの急登だ。


研究熱心なMさんは、図書館から借り出してきた小辺路の古い写真集や資料を手にときどきフライイングしては、宇江さんを怯ませる。

いったん御殿川(おどがわ)へくだり、赤い鉄橋をわたる。

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宇江さんが先人から聞いた話によると、高野山ではトイレは川に渡した板のうえから直接川へ垂れ流す方式であったらしく、その下流がこの川だから、別名汚土川という、と。今は岩を食む清流が流れており、河岸には紅葉が川面に彩りを添えていた。大滝集落の最後の民家の庭先を通って山道に入る。1時間の急坂を登りきると、高野龍神スカイラインにでた。この道路は奈良県と和歌山県の境界線上を走っているらしく、道路がカーブして直線の県境を越えるごとに、それこそ100mおきぐらいに県境標識が何回も出てきて、その律儀さがおかしかった。通行者にとってこの正確性にいかほどの意味があるというのか。ちなみに小辺路は、八木尾までのほとんどの区間が奈良県側にある。



びゅんびゅん走る車のわきを30分ぐらい歩くと水ガ峰入り口に着く。そこから山道に入るとすぐ、水ガ峰集落跡に到る。防風林の杉の巨木の木立が時の経過の長さを物語っている。ここには旅籠もあったらしく、関東方面から来る参詣者たち―「かんとうべえ」といわれていた―が利用したため賑わったらしい。あるとき、めずらしく尺余の雪が降り集落の人々が大騒ぎしていると、「かんとうべえ」は“おらんくでは、こんなもん、霜だべえ”といったという言い伝えも残っているそうだ。天誅組が旗揚げをしたとき、陣屋を構えていたところとしても知られている。

しばらく山道をたどると、林道タイノ原線に合流する。

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車道わきに展望所があったので小休止する。ここで日帰り組は、先回りして迎えにきてくれた今朝のチャーターバスに乗って高野山経由で帰阪した。2時を過ぎると影が長くなる。歩行中は感じなかったが、汗が引くと寒気を覚えるくらい気温が低いことがわかる。

このあと古道は、林道とからみながらなだらかなくだりとなり、平辻に到る。そこからやや急なくだりとなり、4時すぎに大股の集落におり立った。そこには、吉野さんが車でわれわれを待っていてくれた。

今夜泊まる「よしのや」はここから北股川を荒神岳方向へ11km遡ったところの北股集落にある。宿にも風呂はあるが、近くに野迫川温泉があるので、そこで入浴することになり、大股から弓手原川沿いを少しくだったところにある温泉ホテルで入浴した。宇江さんが車に残していた入浴グッズをわれわれの誰かが間違えて自分のザックに収納してしまったらしく、宇江さんは入浴できなくなってしまった。M本さんも宇江さんに付き合ってわれわれが湯からあがってくるのを待っていてくれた。この温泉は最近改築したものらしく、宿泊施設も温泉も山奥には不似合いなくらい立派だった。
狭い谷あいの夜空に瞬く星を仰ぎながら北股川沿いの坂道を車で走る。吉野さんは車を運転しながら、堰を切ったように多岐にわたる薀蓄を披露した。真面目に聞いていたらギャグだったりした。時間からすると相当北上している感じだったが、暗いのでどこを走っているのかわからなかった。

やっと宿に到着、上品な感じの奥さんに迎えられ、部屋に落ちつき、早速、食卓を囲む。新鮮な野菜やキノコがたっぷりの寄せ鍋をつつきながら、宇江さんから話を聞く。宇江さんは、持参の焼酎をお湯で割ってそれをちびちびやりながら、われわれの質問に訥々と丁寧に答えてくれた。相客は若い男性が一人だけ。宇江さんと懇意であることから、主人も奥さんもわれわれをなじみとして扱ってくれた。宇江さんは、風邪気味で体調がすぐれないらしく、中座して早めに就寝。私も酔いがまわってそこそこにリタイアしたが、彼女たちはおそくまでおしゃべりに励んでいたようだ。

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ー続くー


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