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欽子さんの宇江敏勝先生と歩く熊野古道小辺路

旅行記(小辺路)

2005年11月17日

晩秋の熊野小辺路を歩く。part1

高野山金剛三昧院10:45―――ろくろ峠―――薄峠11:45―――大股16:50着

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「語り部 宇江先生と歩く熊野古道小辺路」が企画された。
主催者は、熊野古道に惚れ込んでゆくゆくは熊野に移住したいとまで思いつめているMさん。
Mさんの熱い思いにひきこまれて、集まったのは4人。
もっとも、「宇江先生の魅力にひかれて」という人が大半のようだけど、私自身は宇江先生が何者なのかまったく知らなかった。

小辺路は熊野古道の中でも、3つの1000M級の峠と、3つの渓谷を越えていく全長72KMの難コース。
前半高野山~五百瀬 後半五百瀬~熊野本宮の2回にわけての企画。

7:30大型タクシーで大阪を出発、晩秋の色濃い紀州路をたどり、10時に冷気身に染む高野山に到着。
地下足袋にレトロ調のリックの宇江さんと合流した。
金剛三昧院の横の石畳を登り、やがてろくろ峠に着いた。旅人を悩ませる「ろくろッ首の妖怪」かと思いきや、ぬりものの下地などの木地をつくる「ろくろ」に由来するのだと、宇江さんが訥々とかたる。

その後、旅を終えてから、その飾らない人柄に魅了されて 「宇江敏勝」の著書を何冊か読んだ。
山小屋に住んで、炭焼きや林業に従事しながら、日々の暮らしや山の自然、日本の林業の問題点などを、飾らずおもねらず語った著書が多数ある。
現場での体験談には、読者をひきこむ力があった。

昭和33年まで、父親と人里離れた山奥で炭焼きをしていた。究極の不便な生活なのだが、父が自分の皿から息子の皿の中に、おかずを一切のせてやる。息子はだまってそれをたべる。こんな描写のなかに、父と子の景色がうかぶ。

小柄な宇江さんの後姿からは、著書から読み取れる強靭な山仕事の体力や、精神力はうかがえない。

炭焼きや木地師など 山を生業の場として生きていた人々が、昭和の中頃までこの熊野の山々に住んでいたのだ。

尾根の落葉樹は、晩秋のやわらかな日差しをうけて、最後の彩りを残し、枯れススキが金波銀波にそよいでいた。
遠くの山はグラデーションに霞んでいる。

傍らの石仏のいわれ等の説明を聞きながら、峠をひとつ越えて南の斜面で弁当にする。
ここには焼けた柱が散見するが、何年か前に民家が焼失したのだそうだ。
石垣だけは今も健在だった。

谷までくだり、清流の御殿橋をわたると2時間の登りになる。
御殿川(おどがわ)は本来「汚土川」といったそうで、高野山の汚水が流れてきたのだという。
急坂なこの坂は「馬殺しの坂」といわれていたそうだ。
炭や高野豆腐を積んで高野山へくだり、帰りは生活用品を積んで帰った生活道路なのだ。

古道は大滝集落の軒先をぬけて、やがて龍神スカイラインにでた。
車道を30分ほど進んで、山道に分け入ると、防風林の傍らに、水ガ峰集落跡があった。宇江さんはとっておきの話をしてくれた。

その昔は、関東や遠く東北からも熊野詣にきた。一世一代の大旅行となれば、高野山も、伊勢神宮もとなるから、このあたりはたくさんのそんな人達が行き交った。語尾の「~だべー」を称して、彼らのことを「関東べー」「奥州べー」と呼んでいたそうだ。
ある日ここらには珍しく雪が積もった。「今日はえらい雪が降って、大変だ」と旅人を気遣う村人に「なあーんの、うちらの村じゃあこれくれえ 霜だベー」と、言ったそうな・・・。

林道タイノ原線を歩く頃には、日差しはかたむいて、冷たい風が身にしみる。
大股集落の登山口には今夜の宿「よしのや」の主人が待っていた。
車の中は俄然にぎやかになる。
「この釣堀は、父さんだけで開業したから倒産した。母さん仲間にせないかん」    ”大爆笑”
「この村は、スロバキアのハイタトラと姉妹提携しとる。そこには菓子の好きな虎がいるそうだ」     「はあー???」
「歯痛の虎だよ」     「ドッカーン!!!」
とにかく陽気な吉野さんだ。

夕食時 宇江さんからいろんな話がきけると期待したが、風邪気味で草々にひきあげた。察するところ毒気の強い大阪パワーに、退散したのかも・・・


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2005年11月18日

大股9:30―――萱小屋跡10:15―――伯母子岳12:00―――三田谷橋15:15

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翌朝、とうとう宇江さんダウンした。
代わりに吉野さんが大張り切りで、草笛の夫婦デュエットはするは、楓の葉っぱを採取して、植物学者顔負けの講義をしてくれるやらで、出発時間が大幅に遅れた。
吉野さんは苦労人らしいが、根っからの明るい人だ。

大股で吉野さんと別れ、第一の難所「伯母子岳」をめざす。風は冷たいが今日も快晴。夏虫山への道を右に分けて、伯母子岳への頂上をめざすが、時々 古道の雰囲気を壊すような道路整備がしてあって興ざめだ。

伯母子岳の頂上からは護摩壇山が尾根づたいに続き、東には遥か大峰山系がつらなっていた。紀伊半島のど真ん中から四方を見渡せば、山々の連なりばかりで、人里などなさそうにみえる。若山牧水の心境になる。

陽だまりで風をよけながら、弁当をたべる。
午後の行程は、出発が遅れたのがたたって、かなりのハイペースとなった。

上西家は、当時かなり大きな旅籠だったらしいが今は礎石を残すばかり。
一段上の広場には、墓石が草に埋もれている。どんな人がどんな暮らしをしていたのか、偲ぶよすがは何一つ残っていなかった。
西日をうけた紅葉の木が、そこだけ奇妙に明るかった。

自分の立てる、サクサクと落ち葉をラッセルする音だけがして、冬枯れ間近の雑木林を歩くのは、心地がいい。

急降下して車道にでると、予約していた十津川村のバスが待っていた。
十津川村は村の96%を山林がしめ、十津川添いの僅かな土地に集落が点在する。
そこを結ぶのが村営バスだ。新聞も配達するし、荷物も届ける。

不便な所でも、知恵があればちゃんと機能するのだと思った。
Mさんも言っていた。「十津川村の古道の整備の仕方には、心がある」と。

今回 人数の関係で登山口から五条行きのバス停まで足が確保できなかった。
十津川村のバスを特別手配してもらって、命拾いしたのだった。

川津でバスを待つ間、バス停前の雑貨屋のストーブに当らせてもらって、part2へ思いをはせた。


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2005年11月29日

晩秋の熊野小辺路を歩く。part2

三浦口11:45―――三浦峠14:25―――矢倉観音堂16:00―――西中16:50着

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part2は小辺路核心部ともいえる、果無峠越え。
果無山脈とはロマンチックな名前だが、伝説に由来するそうだ。
この山に住む「いっぽんたたら」は、12月(ハテ)20日になると旅人を襲って喰った。だからその日になると、旅人の姿が絶えた(ナシ)・・・・

中辺路を歩いた時、屏風のようにたちはだかる果無山脈をみて、果てしない山なみとは何と詩的な名かと思ったものだ。
大阪を7:30に出て、三田谷の集落で11時過ぎ、宇江さんと落ち合う。

このあたりは、平維盛ゆかりの地とされ、屋島の戦いに敗れた維盛が吉野の山中を流浪の果て、このあたりで生涯をとじたと、伝承されていて墓がある。

南朝の大塔宮護良親王にまつわる哀史や、近世の天誅組の悲劇など、歴史的な興味もつきない所なのだ。

十津川は明治22年未曾有の大雨で氾濫し、土砂崩れで堰き止められた湖が大崩壊して、2次災害を起こし、十津川村では170人の死者と甚大な被害をもたらした。
生活の基盤を失った住民600戸2500人が、北海道に移住した。

後日談として宇江さんが語るところによれば、開墾の段階では山人としての本領を発揮したのだが、農業には不慣れで、せっかく手に入れた土地を手放す人もいたのだそうだ。
  

そんな語りを聞きながら、石畳をたどって行くと、うっそうたる植林の中に、異様な樹形をした杉の古木が整列している。
吉村家の防風林跡。
  
  
陽だまりで昼食をして、宇江さんは引き返す。ほら貝の音を残して。
三浦峠には休憩所や案内板が整備されていた。鹿よけのゲートをあけて山道にはいる。仲間の一人が前このあたりを歩いた時、鹿よけの網に足を絡ませた鹿がいた。おびえる鹿を網からはずして、逃がしてやったそうだ。
「鹿の恩返し」があったかどうかは、知らない。宇江さんの本にも、植林と食害との折り合いの難しさが書かれていた。

 
やや単調な山道をくだり、典型的な十津川民家の前庭にでた。雨の多いこの地方では、軒先に30cmほどの板を垂直にうちつけてある。
無人の家のようだった。

車道と合流して、宇江さんのほら貝の出迎えを受ける。

車で移動して、十津川温泉民宿の星空の露天風呂で、癒された。


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2005年11月30日

昴の郷8:00―――天水田10:00―――果無峠11:30―――熊野本宮15:15

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小辺路最後の行程。昨日の西中バス停から蕨尾まではほとんど古道の痕跡は残っていない。
この間7.3KMはカットして、今朝は「昴の郷」からスタートする。
         
つり橋を渉るといきなりの急登になるが、もっとも古道らしい風情が残っているコース。ほどなく果無集落にでて、視界が開け、昨日越えた峠も遥かかなたに見える。自分の歩いた道を見晴るかすこの時こそ、歩いた距離を実感する。
    

熊野古道のポスターにも登場しているおばあちゃんが、丁度野良仕事に出かけるところだった。干し柿のさがった縁側は、絶好の被写体だ。
Tさんは庭先にあった棒を、「杖に」と貰ってしまったけど、それっておばあちゃんの必需品だったんじゃないの?
        
少し角のまるくなった石畳を歩いていると、自分の世界に入り込んでいった。

17年も前、右も左もわからずに入った山の会で、手ほどきしてくれたのが「Inaちやん」だった。
実業団の相撲の選手だったという彼は、少し太めだけど、パワーがある。人なつこい笑顔で、本物のちゃんこ鍋をふるまってくれて、クラブにはなくてはならない人だった。
百名山をめざしていた私たち3人組と、なぜか馬が合ってよく一緒に山行した。
師匠だと思っていたのに、彼が単身赴任をきっかけに体調を崩してから、立場が逆転した。

心臓肥大で医者から止められても、訓練すれば体力がつくと、彼は私たちとの山行を望んでいた。
「病気を治してから行こう」と、断った私の気持ちの中に、山で面倒な事になったら困ると思っていた事は事実だ。

あの時の彼の寂しい気持ちを思うと、今でも居たたまれないほど申し訳ないと思う。天国へ行ってしまった彼に詫びる事もできない。
お墓におまいりすることもできず、あれから5年も経つが、気持ちの整理がつかない。
   

そんな気持ちを反芻しながら、石仏の道をたどると、やがて果無峠。

  

昼食をとって、ひたすら熊野川めざして急降下する。民家の庭先を抜けると、八木尾のバス停に到着。熊野川がおだやかに流れていた。

硬い舗装路は足にこたえるが、年長のSさんは疲れを知らない。年を重ねるごとにパワーアップするとは恐るべし。

やがて三軒茶屋で中辺路に合流した。熊野本宮に無事ゴール。
古道を歩くとは、古の 祈りの路・くらしの跡をたどること。
歩く事の原点を知ることだった


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