宇江敏勝先生と歩いた熊野古道小辺路④

505

翌日は7時に朝食、残ったご飯でおにぎりをたくさんこしらえて、7時45分に出発した。「昴の郷」まで車で移動し、8時に歩行スタート。今日の果無峠越えが小辺路のなかで最も登高差の大きいルートである。一同、心して取り付く。今日も快晴だ。
「昴の郷」の構内からトンネルをくぐり、

490


旧国道にでて、十津川に架かっている吊り橋をわたる。この橋は、高さでは劣るものの、有名な「谷瀬の吊り橋」に次ぐような長さである。高札に「一度に渡れるのは5名まで」とある。貫禄十分のTさんは、自分に集まった皆の視線を撥ね返すように、トータルの重量ではなくあくまで人数が問題なのだ、とわざわざ強弁していた。歩調が同調するとかなり揺れる。人数説はあながち荒唐ではないのかもしれない。

491

苔むした階段を登ると墓場の前にでた。きのう宇江さんにきいた話であるが、十津川では廃仏毀釈が徹底されたため、すべて神道になったという。そのため、当地方にはお寺がなく、観音堂がひとつあるだけだそうだ。墓石には戒名ではなく、本名が記されている。しかも、個人ごとに墓石が建てられている。
十津川村は、奈良県最南端の日本一大きな村であり、人口は4、500人、面積は琵琶湖に匹敵する大きさがあるが、面積の96%が奥深い山地であり、独特の風習、文化を育んで今日に至っているようだ。明治22年の大洪水で村は壊滅的な被害を蒙ったため、住民の半分、二千数百名が北海道の石狩平野に新天地を求めて集団移住したという。そのとき、彼らは神戸から乗船するため、年寄り、子供の手をひき、家財道具を背負って小辺路を越えて高野山へ歩いていったという。胸中の思いは、いかなるものであったろうか。北海道の移住先は、新十津川村と名づけられた。原野を切り拓く段階では、十津川村出身者は大いにその能力を発揮したらしいが、農作物の栽培の段階になると他の地方の出身者に次第に主導権を奪われていったらしい。そういえば、熊野本宮もこのときの大洪水で、社屋の多くを流され、大斎原(おおゆのはら)から高台の現在地に移されたのである。人間に恵みをもたらしてくれる大自然もときにはこのように牙を剥くのだ。ふと旧山古志村の“天変地異”のことが脳裏をかすめた。
今日の行程は、とくに石畳が多い。熊野古道の宣伝写真は、M本さんによると、ほとんどがこのコースで撮られているという。熊野古道の、その神髄を味わってもらおうと、M本さんはみんなを代わるがわる先頭を歩かせてくれた。

497


しばらく急な坂道をのぼり尾根にでると、果無の集落にでた。現在も7戸が住んでいるという。最初の民家の庭先に、今朝民宿で見たポスターにでていたおばあさんがいた。軒下の吊るし柿を背景にしたり、縁側に並んだりして、各自おばあさんと記念撮影に収まる。

504


嫌がりもせず、黙ってにこにこしながら応じてくれた。その素朴な表情と掃き清められた庭先の端正さが心に残った。眼下に十津川温泉の家並みが展望される。

506


今は車道が通じているので生活の不便はないのだろう。尾根の上はなだらかな畑地や茶畑になっており、野菜には不自由しないようだ。はるか北方にはきのう越えてきた三浦峠が望見される。道端には、西国三十三番札所めぐりの小さな観音石仏が祀られており、丁石がわりになる。
車道から離れ、植林帯のなかの石畳道を根気よくのぼる。尾根にでると明るくなり正面にこれから越える果無の山並みがみえるが、かなりの高さである。広い平地にでた。天水田だ。水田が耕作されていた跡である。こんな高地まで耕作されていたのかと驚く。

513


果無の峠を仰ぎながら小休止。われわれのいるところから正面の果無山脈までの間にはいかにも谷がありそうな感じをうけるが、尾根続きらしい。
暗い植林帯のなかのジグザグ道を喘ぎながらのぼると、観音堂に着く。10時25分。水場があり、トイレもある。観音堂まえの小屋の雨戸を繰ってなかを覗くと、なかからしけた空気が漂い出し、梁から何か吊るしてあるのがみえた。一瞬、ぎょっとしてあわてて雨戸を閉める。私の驚きの「演技」が効き過ぎたのか、皆、怖がって小走りに観音堂をあとにした。

518

そこからえんえんと続く急坂をひたすらのぼりきると、ひょっこり果無峠に着いた。11時だ。右手から果無山脈の縦走路が合流している。ここが縦走路の終点だ。展望はない。峠には、宝きょう印塔があるが、原型を留めないくらい欠損していた。ところで、果無山脈の名の由来であるが、“涯てしない”という意味ではなく、ある伝説に由来していると、宇江さんの本に書いてあった。

520

この山には「いっぽんたたら」という怪物が棲んでいた。一つ目、一本足のその怪物は、ハテ(12月)の20日になると出没して峠を越える旅人を襲って喰った、だからその日に限って人の往来もナシ(なかった)と。峠を越えるとあとはくだりであるから、少し早いが昼食にする。今朝、民宿で作ったおにぎりに各自が持参したおかずを菜にして食べる。意外と美味しかった。

522


腹ごしらえをすませ、11時35分に出発し先を急ぐが、このペースでは、本宮到着が午後3時前後となり、温泉入浴がむずかしい情勢だ。川湯の大露天風呂入浴を楽しみに水着を用意してきた皆さんも多かったが・・・。
果無峠からのくだりはこれまでのくだりにくらべ、かなり急である。観音石仏の番号を数えながらどんどんすすむ。三十丁石を過ぎると、前方に蛇行した熊野川と本宮の町並みがみえだす。午後0時50分に七色分岐に着く。はるか左下に七色の集落が樹間に見える。ここから七色の集落へくだることもできるが、M本さんによるとかなりの急坂で危険らしい。七色分岐を見送ってさらにくだる。途中、下から登ってきた一人の遍路装束の男性と出会う。小辺路ではじめて出合った遭遇者だ。青年と思っていたが、聞けば60歳とのこと。今夜は十津川温泉の「えびす荘」に泊まり、高野山まで歩くという。
だんだん高度をさげてきた。何箇所か木作りのテーブルとベンチが設けられているが、前方の植林が茂ってきたためか、眼下に広がるはずの展望をまったく失っている。かなり飛ばして歩いたので、午後1時30分に国道168号線の八木尾のバス停におり立つことができた。ここから中辺路との合流点までは車道を歩くことになる。さっきまでの静寂な山道とは別世界だ。
528

道の駅まで国道の歩道を20分ほどてくてく歩く。道の駅はあいにく定休日。

531

そそくさと中辺路との合流点である三軒茶屋跡へ向かう。2時20分に三軒茶屋跡に着き、われわれの長い小辺路歩きは事実上終わった.

534


あとは、この春歩いたばかりの中辺路を本宮までたどる。途中、朝日、夕日の眺めがすばらしいという展望所に寄り、本宮のある方角を見晴るかす。

536


そして、最後の王子社であった祓戸王子跡のまえを通って、3時に裏手から最終目的地である熊野本宮の構内に入る。

538


宮司の一人に拝殿の並び方についての説明をうけ、各自内殿に入ってそれぞれの思いで参拝をする。
3時30分に待ちくたびれていたチャーターバスに乗り込み、田辺経由で大阪へ向かった。温泉入浴はできなかったが、帰路の車中では、一同ビール片手で小辺路踏破の達成感に浸りながら、おしゃべりに花を咲かせた。とくに、M本さんは、わざわざ持参した古く錆びたガソリンコンロを示しながら、昔のテント泊山行の様子を説明してくれた。彼女の瞳は、まるで遠い青春時代の思い出のなかを漂っているようだった。みんなは、陶然として彼女の話を聴いていた。


540

小辺路は、私がこれまで歩いた熊野古道の参詣路のなかで、もっとも素朴な山道だった。昔の小辺路は、山深い奥高野に住む人々の生活路でもあったが、車道が通じてからは寸断され、あるいはその少なからぬ区間が廃道同然となり、残された、路傍に苔むしている石仏と道しるべ、ところどころにある崩れかけた石積みと石畳、落葉におおわれたかすかな踏み跡等が、伝承とともに、かつてそこに人々の生活と信仰の営みがあったことを歴史の証しとして、今に伝えているにすぎない。それらを掘り起こしてくれる語り部とともに気心の知れた少人数の仲間と、歴史へ思いを馳せながら紡ぐ小辺路“御幸”は、普通の山行とはひと味もふた味もちがうものとなった。参加者全員の積善のお陰か、幸い全行程好天に恵まれ、晩秋から初冬にかけて奥深い紀伊の静かな山歩きを満喫することができ、こころに残る山旅となった。そして、一連の古道歩きを通じて、熊野の山の深さ、森の豊かさに、おそらくいにしえびとが抱いたであろう畏怖の念すら感じたのである。
(2005.11)

| コメント (0) | トラックバック (0)

宇江敏勝先生と歩いた熊野古道小辺路③

第2回目(11月29~30日)


480_3

第2回目の参加者は、前回の宿泊組5名に加え、3名が新たに参加し、合計8名となった。チャーターした小型マイクロバスで大阪駅前を午前7時30分に出発。五条を経由して国道168号線を南下し、川津から神納川沿いの林道を遡る。前回の下山口の五百瀬の三田谷の集落に11時20分に到着。そこで待っていてくれた宇江さんと落ち合う。宇江さんは、まだ風邪から完全には回復しておらず、今日1日だけのお付き合いとなった。
 われわれが車をとめたすぐ前の家は、小辺路にはじめて馬(荷駄)を導入した池尾馬之助が老後住んでいたもので、現在は孫の代になっているという。宇江さんが、庭先で洗い物をしていた50歳過ぎの婦人に声を掛けると、そのひとが馬之助の孫の奥さんだった。舅や姑から馬之助の話は聞いているという。


460

今回の登山口となる三浦口まで歩く道すがら、平 惟盛の墓と言い伝えられている祠を教えてもらう。平 惟盛は清盛の孫で、平家物語では壇の浦の戦いに敗れたあと、熊野の山奥に落ちのびたが、最後、熊野灘で入水したとなっている。しかし、この地方では、地元の豪族にかくまわれ当地で生き延びたと言い伝えられ、あちこちに惟盛の墓がある。前回歩いた野迫川村の平という集落にも惟盛塚があったことは前述したとおりだ。
三浦口のバス停前から神納川の河岸まで下り、小さな吊り橋を渡る。昔は、渡し舟を使って渡河していたらしい。つり橋の名前は、船渡橋。江戸時代の古い記録に、船賃が高いとう苦情の話がでているという。
いよいよ三浦峠への登りだ。丁度正午である。細い坂道を登ると民家の前にでる。今でも人が住んでいる。そういえば小辺路の特徴は、石畳が多いことと、よく民家の庭先を通ることである。

469

息を継ぎながら鬱蒼とした植林のなかの急坂をしばらくのぼると奇妙な恰好をした巨大な杉の古木群が現れる。周りの整然とした植林のなかで異様な一角をなしている。吉村家跡の防風林だ。屋敷の風上側に杉並木を植えて防風をする風景は今でも地方で見られるが、手入れをされることもなく何百年も経過するとこんな姿になるのだ。人の営みはつとに絶え、人家は朽ち果てても、それを見下ろし続けた杉の古木群と石積みに歴史の重みを感じる。
470


宇江さんが持参の法螺貝を吹く。その響きは、樹間を抜け、峰々へ広がった。
道が雑木林のなかのゆるやかな踏み跡になったところで、遅めの弁当を開く。三十丁の水場を越えた2時過ぎに、宇江さんは引き返すことになった。登山口に停めておいた車で、我々の下山口である西中に先回りするためである。宇江さんがくだっていったあと、前回にくらべ今回は宇江さんの口のすべりはよかった、前回は大阪のオバちゃん連中の毒気に当てられペースを乱されたうえ風邪までひき、散々な目にあったと思っているにちがいない、などと囃し立てながら歩く。
2時25分に三浦峠にでる。そこには小さなトイレと、東屋があった。東屋のまえには説明板があり、16世紀の文献(駄洒落集)にすでに大辺路、小辺路の名称がみえるむね書いてあった。「へちまの皮」と荷駄に使われていた瘠せ馬を掛け、「へち(辺路)馬」の皮はなんの役にもたたないという駄洒落である。尾根を林道が走っている。高野龍神スカイラインに繋がっているという。私は、三浦峠からは、前回越えた伯母子岳が望見できると期待していたが、展望はまったく利かず、がっかりする。小辺路ルートは林道を横切り、鹿よけの防護柵の扉をあけて進むことになる。
道は尾根を左右に跨ぎながらゆるやかにくだる。古矢倉跡、出店跡を過ぎさらにどんどんくだっていくと、左手があかるく開け、深い谷の向こう側の中腹に人家が見える。今西の集落だ。小辺路は今西川と西川との合流点へ向かって切りおちている尾根をたどっている。途中あまり高度がさがらないと、最後に急坂が待っていることになる。Mさんから、なぜ古道は谷筋を通らず尾根道が多いのだろうと聞かれたが、尾根道が谷筋より崩れにくく、また高低差を少なくするためでもあろうか。
やがて古道は新道と旧道とに分かれ、われわれは旧道をとる。こちらには、五輪の塔や矢倉観音堂があるのだ。矢倉観音堂についたのは、午後4時前だった。もうすぐ西中のバス停のはずだ。当初、小辺路をあくまで徒歩で繋ぐため十津川温泉の「昴の郷」まで車道を歩く予定であったが、2時間も掛かるので車で移動することにする。
つづら折れの道をくだるとひろく開けた西中の車道にでた。車道に宇江さんの姿がみえる。たった今着いたところという。宇江さんが、法螺貝を吹く。

474_2


犬が吠え立てる。山の斜面にある最初の古家には、最近大阪から中年の女性が独り移り住んでいるという。この下の家にやはり女性が訳ありげにひとり住いをしているらしいが、宇江さんは、こちらの方が美人であると何回も繰り返していた。
西中のバス停まで少し距離があるが、古道は車道沿いに残っており、われわれはそれをたどり、バス停の前にでた。迎えにきていたチャーターバスに乗り、宿舎の十津川温泉の「えびす荘」に向かった。途中、宇江さんと別れの挨拶を交わす。


「えびす荘」は、Mさんがインターネットで捜し予約してくれた民宿だ。浴室は2階にあり、源泉掛け流しの露天風呂になっている。雨天のときは笠をかぶって入浴するのか、脱衣場には編み笠がいくつか用意されている。漆黒の夜空に星が瞬いていた。夜風に吹かれながら、深々と出で湯につかり、疲れを癒す。
宴会は雉肉の鍋である。初めて口にしたが、鶏肉とさほどの違いはなかった。身内だけという気安さもあって、皆でビールをかなり飲んだようだ。一同疲れていたのか、席を移してのおしゃべり会もなく、すぐにおとなしく寝てしまった。

続きを読む "宇江敏勝先生と歩いた熊野古道小辺路③"

| コメント (0) | トラックバック (0)

宇江敏勝先生と歩いた熊野古道小辺路②

②宇江敏勝先生と熊野古道・小辺路を歩く
2005年11月17日~18日        
坂田晃司 (写真提供)・記

445_2

11月18日
翌朝、6時前に起床し、朝まだきの宿の周辺を散策する。蛇行した川の河岸に民家が蝟集している。つり橋を渡り、小さな学校の校庭にでた。昨夜、吉野さんが、去年廃校になったといっていたが、石垣に書いてあった「ありがとう 北股小学校」のペンキの字は真新しかった。通りすがりの主婦に聞いたが、この集落には30数戸があり、おおかたは林業関係と役場に勤めているひとが住んでいるとのこと。この集落には野迫川役場もあり、野迫川村最大の集落であると、あとで吉野さんに聞いた。野迫川村(のせがわ)は奈良県最奥の、面積は奈良県随一でありながらほとんどが山林の、戸数は700戸あまり、人口2000人余の僻村である。いずれどこかの隣接の町に併合され、人々の住いそのものもこの山あいから消えていくのかもしれない。
宿にもどり、テレビを観ていたが、彼女たちは起きだす気配はない。7時朝食、7時30分出発に間に合わなくなるので恐る恐る声を掛けると、若者のように爆睡していた。
宇江さんは、風邪で熱があるとのことで、今日は同行できなくなった。たいへんめずらしいことであるが、どうやらわれわれ型破り一行の毒気に当てられたらしい。
あるいは、昨夜、温泉で体を温めることができなかったのが原因かも。
ちなみに、宇江さんの着替えの入った包みを間違って自分のザックに入れていたのはMさんだった。昨夜ザックのなかを整理しているとき男物の下着がでてきたので狼狽、そ知らぬ顔をして宇江さんの部屋の入り口のまえにそっと置いてきたらしい。
宇江さんのかわりに吉野さんが、即席の植物学の講義をやってくれた。宿のまわりにあるいろんな楓の落ち葉を拾い集め、吉野さんが用意してくれた古雑誌に各自押し葉をして、そこに名前、生育地帯(標高)、特徴等を書き入れる。自分で標本をつくり常時それを眺めるのが樹木や草花の名前を覚える一番の早道であるという。
いっぱしの紅葉博士になったような気になるから不思議だ。夫婦で草笛も奏でてくれた。われわれもやってみたが、音はでなかった。

出発予定時間を大幅に遅れてしまい、大急ぎで伯母子岳の登山口である大股に車で送ってもらう。途中、吉野さんは、運転をしながら寸刻を惜しむがごとく話を続ける。まず、自分の生い立ちと来し方を話してくれた。両親がはやくなくなったので長男の吉野さんは少年のころから一家の主として苦労したらしい。なんと宇江さんより1年歳上だった。若々しく、とてもそんな歳にはみえない。秘訣を聞くと、何ごとにも興味を抱き、研究する姿勢を貫いたと。今では、紀伊の森林や植物に関して大学の先生から問い合わせがくることもあるという。もらった名刺には、森林インストラクター、自然公園指導員、熊野古道小辺路語り部、樹医と、四つの肩書きが並んでいた。自分でも相当の山林をもっており、間伐や下草刈りに出かけるらしい。とにかく、行動的なひとだ。時間を気にしながらも、途中の平(きのう通った平辻はこのうえの稜線上にある)の集落では、惟盛塚に立ち寄り、塚のうえから宇江さんが働いていたキリクチ谷の作業小屋のありかを教えてくれた。また、実物を指し示しながらの両墓制の話も興味深かった。実際に土葬する土饅頭に木の墓標を立てただけの「ウメバカ」は家から離れた山の尾根にあり、お参りをする立派な墓石の「マイリバカ」は庭先につくられるそうだ。

433


吉野さんと別れを惜しんで、大股の登山口を歩き始めたのは9時30分だった。予定より1時間30分も遅れている。五百瀬の三田谷橋に3時30分までに着かなければならないが、M本さんの話によれば、われわれは足が揃っているので大丈夫という。実は、当初、帰阪も昨日のチャーターバスを使うことになっていたが、参加者が少なく割高になるので帰阪は路線バスを利用することとし、宇江さんの口利きにより、十津川町の送迎バスが国道168号線の川津(五条行きのバス停がある)まで送ってくれる手筈が整えられていたのである。

出発予定時間を大幅に遅れてしまい、大急ぎで伯母子岳の登山口である大股に車で送ってもらう。途中、吉野さんは、運転をしながら寸刻を惜しむがごとく話を続ける。まず、自分の生い立ちと来し方を話してくれた。両親がはやくなくなったので長男の吉野さんは少年のころから一家の主として苦労したらしい。なんと宇江さんより1年歳上だった。若々しく、とてもそんな歳にはみえない。秘訣を聞くと、何ごとにも興味を抱き、研究する姿勢を貫いたと。今では、紀伊の森林や植物に関して大学の先生から問い合わせがくることもあるという。もらった名刺には、森林インストラクター、自然公園指導員、熊野古道小辺路語り部、樹医と、四つの肩書きが並んでいた。自分でも相当の山林をもっており、間伐や下草刈りに出かけるらしい。とにかく、行動的なひとだ。時間を気にしながらも、途中の平(きのう通った平辻はこのうえの稜線上にある)の集落では、惟盛塚に立ち寄り、塚のうえから宇江さんが働いていたキリクチ谷の作業小屋のありかを教えてくれた。

431_2


また、実物を指し示しながらの両墓制の話も興味深かった。実際に土葬する土饅頭に木の墓標を立てただけの「ウメバカ」は家から離れた山の尾根にあり、お参りをする立派な墓石の「マイリバカ」は庭先につくられるそうだ。

吉野さんと別れを惜しんで、大股の登山口を歩き始めたのは9時30分だった。予定より1時間30分も遅れている。五百瀬の三田谷橋に3時30分までに着かなければならないが、M本さんの話によれば、われわれは足が揃っているので大丈夫という。実は、当初、帰阪も昨日のチャーターバスを使うことになっていたが、参加者が少なく割高になるので帰阪は路線バスを利用することとし、宇江さんの口利きにより、十津川町の送迎バスが国道168号線の川津(五条行きのバス停がある)まで送ってくれる手筈が整えられていたのである。

今日の行程は、標高1344mの伯母子岳越えである。登山口の大股の標高が600m強だから、標高差700m余の急登だが、ガイドブックなどには頂上からの展望がすばらしいと書いてあるので、楽しみだ。途中、萱小屋跡を経て

435_2


1時間をかけて檜峠に着くと道はようやく水平道になる。尾根にでると雑木の疎林となり、樹林を通して正面に伯母子岳のピークらしいものが見えてきた。檜峠から右側の尾根に延びている夏虫山(1348m)への分岐を見送って真っ直ぐ伸びているトラバース道をすすむと、ほどなく伯母子岳頂上付け根の十字路に着く。

438


右の分岐は護摩壇山(和歌山県の最高峰)への遊歩道、左の分岐は伯母子峠へのトラバース道、われわれは伯母子岳頂上への真ん中の道を登る。
約20分で頂上に達した。正午である。掛け値なしの、すばらしい眺望だ。近くには夏虫山が尖っており、足元からは護摩壇山への縦走路が峰々を越えて延びている。南には第2回目に越える果無山脈があるはずだが同定できない。北の方角には、大峯山系が横たわっている。左から右に、山上ヶ岳、行者還岳、弥山、八経ヶ岳、釈迦岳がそれぞれの特徴ある山容を誇示している。今年の厳冬雪積期に苦戦したことがまるで遠い昔のできごとのように脳裏にうかんだ。

440


ここで弁当を開き、空腹を満たす。あとは基本的にはくだりだからゆっくり歩けると考えていたが、距離がながく、後半は飛ばし気味でやっと時間に間に合ったというのが実態である。午後0時45分に出発。15分くだって、伯母子峠に着く。ここには立派な避難ここには立派な避難小屋とトイレがあった。10分もくだれば水場もある。ここを利用すれば、大股から1泊で伯母子岳から護摩壇山へ縦走し、高野龍神スカイラインのバスで帰阪できる。

450

道は落葉した雑木林のなかをトラバース気味にゆるやかにくだっており、ところどころに残っている真っ赤に紅葉したドウダンつつじの木が、木漏れ日にアクセントを添える。

454

吹き溜まりでは落葉が膝下にまで達し、まるで落ち葉のなかのラッセルだ。午後1時40分に上西家跡に着く。広い屋敷跡で、昔は旅籠があったという。

ここから古道は二手に分岐しており、われわれは道標に従って尾根道をたどった。このルートはあとでもうひとつのトラバース道と合流するが、弘法大師坐像はトラバース道の方にある。やがて道は、神納川と三田谷川の合流点にむかって切りおちている尾根のつづら折れの急坂を一気にくだる。

458

ひょっこり車道に飛び出すと、そこにバスの運転手が立っていた。3時15分、ジャストインタイムだ。急いだので、ちょっと疲れた。十津川村では、小型バスでいろんな公営施設への送迎をやっており、その空いた時間帯であればまれわれにしてくれたように観光客の便宜を図っているようだ。
神納川を隔てて次回歩く三浦峠への急斜面が見える。神納川沿いの道を30分ぐらいくだると十津川との合流点である国道168号線の川津に着く。このあたりは、神納川も十津川も風屋ダムによる貯水池になっている。五条行きのバス便は4時40分でかなりの待ち時間があるので、バス停まえの店に入れてもらい、ストーブで体を温めながら、ビールを飲んで時間をつぶす。バスのなかでは酔いと心地よい疲れでぐっすり寝込み、五条に着いたのは日もとっぷりと暮れた7時前だった。そこで解散し、各自家路についた。


                ー11月29日~30日に続くー

| コメント (0) | トラックバック (0)

宇江敏勝講師と歩いた熊野古道小辺路①

①宇江敏勝先生と熊野古道・小辺路を歩く
St19210_6

2005年11月17日~18日        
坂田晃司 (写真提供)
11月17日
いくつもある熊野古道のうち、小辺路(こへち)は霊場高野山と熊野本宮を結ぶルートで、短期間で歩くことができるが、途中、1000m級の峠を幾つも越えなければならない険阻な山道で知られている。中世の貴族たちが往来した中辺路にくらべ、小辺路は近世以降にもっぱら庶民に利用されたといわれる。しかし、難路であるうえアプローチの足の便のわるい小辺路は歩くひとも少なく、今ではよほどの“通”でなければたどらない古道である。
今回の小辺路歩きは、熊野古道の語り部を自認する、山の会会員のM本E子さんが昨年から続けている熊野古道歩きの一環として企画したものであり、しかも地元の作家であり本物の語り部である宇江敏勝さんを帯同しての、少人数の贅沢な古道歩きである。これまで、中辺路、大雲取・小雲取、大峯奥駈道を歩いて、熊野古道の魅力にすっかり取り憑かれている私にとって、今回の小辺路歩きは逸することのできないチャンスであった。
全長72kmのコースは昔から3泊4日の行程で歩くのが普通であるが、私たちはこれを2回に分け、各1泊ずつで歩くことになっており、前半は高野山から十津川村の五百瀬まで、後半は五百瀬から熊野本宮までである。それぞれ、前半は野迫川村の北俣で、後半は十津川村の十津川温泉で、1泊する。


●2005年11月17日~18日 金剛三昧院スタート
404_4


第1回目(11月17~18日)
第1回目の参加者は、山の会の会員、会友を中心に、日帰り組2名を含め、7名。チャーターした小型マイクロバスで午前7時30分に梅田を出発した。快晴の堺路を走り、予定より1時間も早い10時に、高野山に着く。    
標高800mの高野山の町の冷気に身が締まる。近くの寺院の境内をぶらついてから宇江さんとの待ち合わせ場所に集まる。そこに宇江さんが、軽トラックに乗ってやってきた。宇江さんの友人であり、今夜宿泊する民宿の「よしのや」の主人でもある吉野武文さんに送ってもらったとのこと。吉野さんは、下山するわれわれを大股でピックアップしてくれるそうだ。

宇江さんのいでたちは毛糸のケンチャン帽に毛糸のセーターを羽織り、12ハゼの地下足袋すがたである。首元にはマフラー、背には古い小型のザック、いかにも山仕事の途中、抜け出してきたような身軽な恰好だ。宇江さんの著作は何冊か読んでおり、自分なりにイメージができあがっていたが、外観は想像より小柄であった。しかし、人柄は、著作からうけていた印象どおり、言葉数が少なく、実直そのものだった。後すがたは若々しい。
金剛三昧院の石標のあるところから石畳の小路を東に入り、10時45分に小辺路歩きのスタートをきる。

きょうの行程は、標高1000mの薄峠を越え、いったん標高700mまでくだってさらに標高1200mの水ガ峰へのぼり返し、標高600m強の大股へくだるというアップアンドダウンのはげしいルートである。途中、高野龍神スカイラインと林道タイノ原線を歩く箇所があり、古道歩きにそぐわない面もあるが、山奥で営まれている生活と林業の便を考えると致し方ないことであろう。

歩きはじめて20分もすると大滝口女人堂跡のろくろ峠につく。昔、ここに木地師が住んでいたという。木地師は轆轤を使って椀や盆などの木工品をつくり、高野山へ供給していた。ここからなだらかな稜線を歩く。天気がよく、空気が澄んでいるので、たたなずく紀伊の山並みが遠くまで見渡せる。植林の枝打ちをしている人がいたので宇江さんが尋ねると一帯は高野山の寺領だという。歩きはじめて1時間で、薄峠に着く。
405_2


途中、宇江さんに樹木の名前を教えてもらう。赤い小粒の実をつけたシモフリや、同じく赤い実をつけたソヨゴ。これはモチの一種で、木製ボタンの材料に使われている木だそうだ。コナラとミズナラの見分け方も教わる。ブナは高地に、イヌブナは低地に生育し、南紀ではクヌギは少ないそうだ。ブナの木肌に似たシデもあった。パルプ材というのは、固有名詞ではなく、パルプの材料になる雑木全体を指していう、などなど。


そこから30分あまりくだると高野マキの植林になり、石積みのある屋敷跡らしい平地にでた。下には谷川の音がしており、対岸の中腹には数戸の民家が見える。大滝集落だ。この屋敷跡には大きな屋敷があって宇江さんも当時のことを知っているそうだが、火事で焼失したらしい。厚さ5cmもある一枚板の焼けぼっくりが残っていた。やわらかい陽だまりで、弁当を開く。対岸は大股村へののぼりがせりあがっている。かなりの急登だ。


研究熱心なMさんは、図書館から借り出してきた小辺路の古い写真集や資料を手にときどきフライイングしては、宇江さんを怯ませる。

いったん御殿川(おどがわ)へくだり、赤い鉄橋をわたる。

413_5

宇江さんが先人から聞いた話によると、高野山ではトイレは川に渡した板のうえから直接川へ垂れ流す方式であったらしく、その下流がこの川だから、別名汚土川という、と。今は岩を食む清流が流れており、河岸には紅葉が川面に彩りを添えていた。大滝集落の最後の民家の庭先を通って山道に入る。1時間の急坂を登りきると、高野龍神スカイラインにでた。この道路は奈良県と和歌山県の境界線上を走っているらしく、道路がカーブして直線の県境を越えるごとに、それこそ100mおきぐらいに県境標識が何回も出てきて、その律儀さがおかしかった。通行者にとってこの正確性にいかほどの意味があるというのか。ちなみに小辺路は、八木尾までのほとんどの区間が奈良県側にある。



びゅんびゅん走る車のわきを30分ぐらい歩くと水ガ峰入り口に着く。そこから山道に入るとすぐ、水ガ峰集落跡に到る。防風林の杉の巨木の木立が時の経過の長さを物語っている。ここには旅籠もあったらしく、関東方面から来る参詣者たち―「かんとうべえ」といわれていた―が利用したため賑わったらしい。あるとき、めずらしく尺余の雪が降り集落の人々が大騒ぎしていると、「かんとうべえ」は“おらんくでは、こんなもん、霜だべえ”といったという言い伝えも残っているそうだ。天誅組が旗揚げをしたとき、陣屋を構えていたところとしても知られている。

しばらく山道をたどると、林道タイノ原線に合流する。

424


車道わきに展望所があったので小休止する。ここで日帰り組は、先回りして迎えにきてくれた今朝のチャーターバスに乗って高野山経由で帰阪した。2時を過ぎると影が長くなる。歩行中は感じなかったが、汗が引くと寒気を覚えるくらい気温が低いことがわかる。

このあと古道は、林道とからみながらなだらかなくだりとなり、平辻に到る。そこからやや急なくだりとなり、4時すぎに大股の集落におり立った。そこには、吉野さんが車でわれわれを待っていてくれた。

今夜泊まる「よしのや」はここから北股川を荒神岳方向へ11km遡ったところの北股集落にある。宿にも風呂はあるが、近くに野迫川温泉があるので、そこで入浴することになり、大股から弓手原川沿いを少しくだったところにある温泉ホテルで入浴した。宇江さんが車に残していた入浴グッズをわれわれの誰かが間違えて自分のザックに収納してしまったらしく、宇江さんは入浴できなくなってしまった。M本さんも宇江さんに付き合ってわれわれが湯からあがってくるのを待っていてくれた。この温泉は最近改築したものらしく、宿泊施設も温泉も山奥には不似合いなくらい立派だった。
狭い谷あいの夜空に瞬く星を仰ぎながら北股川沿いの坂道を車で走る。吉野さんは車を運転しながら、堰を切ったように多岐にわたる薀蓄を披露した。真面目に聞いていたらギャグだったりした。時間からすると相当北上している感じだったが、暗いのでどこを走っているのかわからなかった。

やっと宿に到着、上品な感じの奥さんに迎えられ、部屋に落ちつき、早速、食卓を囲む。新鮮な野菜やキノコがたっぷりの寄せ鍋をつつきながら、宇江さんから話を聞く。宇江さんは、持参の焼酎をお湯で割ってそれをちびちびやりながら、われわれの質問に訥々と丁寧に答えてくれた。相客は若い男性が一人だけ。宇江さんと懇意であることから、主人も奥さんもわれわれをなじみとして扱ってくれた。宇江さんは、風邪気味で体調がすぐれないらしく、中座して早めに就寝。私も酔いがまわってそこそこにリタイアしたが、彼女たちはおそくまでおしゃべりに励んでいたようだ。

427

ー続くー

| コメント (0) | トラックバック (0)

欽子さんの宇江敏勝先生と歩く熊野古道小辺路

旅行記(小辺路)

2005年11月17日

晩秋の熊野小辺路を歩く。part1

高野山金剛三昧院10:45―――ろくろ峠―――薄峠11:45―――大股16:50着

--------------------------------------------------------------------------------
「語り部 宇江先生と歩く熊野古道小辺路」が企画された。
主催者は、熊野古道に惚れ込んでゆくゆくは熊野に移住したいとまで思いつめているMさん。
Mさんの熱い思いにひきこまれて、集まったのは4人。
もっとも、「宇江先生の魅力にひかれて」という人が大半のようだけど、私自身は宇江先生が何者なのかまったく知らなかった。

小辺路は熊野古道の中でも、3つの1000M級の峠と、3つの渓谷を越えていく全長72KMの難コース。
前半高野山~五百瀬 後半五百瀬~熊野本宮の2回にわけての企画。

7:30大型タクシーで大阪を出発、晩秋の色濃い紀州路をたどり、10時に冷気身に染む高野山に到着。
地下足袋にレトロ調のリックの宇江さんと合流した。
金剛三昧院の横の石畳を登り、やがてろくろ峠に着いた。旅人を悩ませる「ろくろッ首の妖怪」かと思いきや、ぬりものの下地などの木地をつくる「ろくろ」に由来するのだと、宇江さんが訥々とかたる。

その後、旅を終えてから、その飾らない人柄に魅了されて 「宇江敏勝」の著書を何冊か読んだ。
山小屋に住んで、炭焼きや林業に従事しながら、日々の暮らしや山の自然、日本の林業の問題点などを、飾らずおもねらず語った著書が多数ある。
現場での体験談には、読者をひきこむ力があった。

昭和33年まで、父親と人里離れた山奥で炭焼きをしていた。究極の不便な生活なのだが、父が自分の皿から息子の皿の中に、おかずを一切のせてやる。息子はだまってそれをたべる。こんな描写のなかに、父と子の景色がうかぶ。

小柄な宇江さんの後姿からは、著書から読み取れる強靭な山仕事の体力や、精神力はうかがえない。

炭焼きや木地師など 山を生業の場として生きていた人々が、昭和の中頃までこの熊野の山々に住んでいたのだ。

尾根の落葉樹は、晩秋のやわらかな日差しをうけて、最後の彩りを残し、枯れススキが金波銀波にそよいでいた。
遠くの山はグラデーションに霞んでいる。

傍らの石仏のいわれ等の説明を聞きながら、峠をひとつ越えて南の斜面で弁当にする。
ここには焼けた柱が散見するが、何年か前に民家が焼失したのだそうだ。
石垣だけは今も健在だった。

谷までくだり、清流の御殿橋をわたると2時間の登りになる。
御殿川(おどがわ)は本来「汚土川」といったそうで、高野山の汚水が流れてきたのだという。
急坂なこの坂は「馬殺しの坂」といわれていたそうだ。
炭や高野豆腐を積んで高野山へくだり、帰りは生活用品を積んで帰った生活道路なのだ。

古道は大滝集落の軒先をぬけて、やがて龍神スカイラインにでた。
車道を30分ほど進んで、山道に分け入ると、防風林の傍らに、水ガ峰集落跡があった。宇江さんはとっておきの話をしてくれた。

その昔は、関東や遠く東北からも熊野詣にきた。一世一代の大旅行となれば、高野山も、伊勢神宮もとなるから、このあたりはたくさんのそんな人達が行き交った。語尾の「~だべー」を称して、彼らのことを「関東べー」「奥州べー」と呼んでいたそうだ。
ある日ここらには珍しく雪が積もった。「今日はえらい雪が降って、大変だ」と旅人を気遣う村人に「なあーんの、うちらの村じゃあこれくれえ 霜だベー」と、言ったそうな・・・。

林道タイノ原線を歩く頃には、日差しはかたむいて、冷たい風が身にしみる。
大股集落の登山口には今夜の宿「よしのや」の主人が待っていた。
車の中は俄然にぎやかになる。
「この釣堀は、父さんだけで開業したから倒産した。母さん仲間にせないかん」    ”大爆笑”
「この村は、スロバキアのハイタトラと姉妹提携しとる。そこには菓子の好きな虎がいるそうだ」     「はあー???」
「歯痛の虎だよ」     「ドッカーン!!!」
とにかく陽気な吉野さんだ。

夕食時 宇江さんからいろんな話がきけると期待したが、風邪気味で草々にひきあげた。察するところ毒気の強い大阪パワーに、退散したのかも・・・


--------------------------------------------------------------------------------



2005年11月18日

大股9:30―――萱小屋跡10:15―――伯母子岳12:00―――三田谷橋15:15

--------------------------------------------------------------------------------
翌朝、とうとう宇江さんダウンした。
代わりに吉野さんが大張り切りで、草笛の夫婦デュエットはするは、楓の葉っぱを採取して、植物学者顔負けの講義をしてくれるやらで、出発時間が大幅に遅れた。
吉野さんは苦労人らしいが、根っからの明るい人だ。

大股で吉野さんと別れ、第一の難所「伯母子岳」をめざす。風は冷たいが今日も快晴。夏虫山への道を右に分けて、伯母子岳への頂上をめざすが、時々 古道の雰囲気を壊すような道路整備がしてあって興ざめだ。

伯母子岳の頂上からは護摩壇山が尾根づたいに続き、東には遥か大峰山系がつらなっていた。紀伊半島のど真ん中から四方を見渡せば、山々の連なりばかりで、人里などなさそうにみえる。若山牧水の心境になる。

陽だまりで風をよけながら、弁当をたべる。
午後の行程は、出発が遅れたのがたたって、かなりのハイペースとなった。

上西家は、当時かなり大きな旅籠だったらしいが今は礎石を残すばかり。
一段上の広場には、墓石が草に埋もれている。どんな人がどんな暮らしをしていたのか、偲ぶよすがは何一つ残っていなかった。
西日をうけた紅葉の木が、そこだけ奇妙に明るかった。

自分の立てる、サクサクと落ち葉をラッセルする音だけがして、冬枯れ間近の雑木林を歩くのは、心地がいい。

急降下して車道にでると、予約していた十津川村のバスが待っていた。
十津川村は村の96%を山林がしめ、十津川添いの僅かな土地に集落が点在する。
そこを結ぶのが村営バスだ。新聞も配達するし、荷物も届ける。

不便な所でも、知恵があればちゃんと機能するのだと思った。
Mさんも言っていた。「十津川村の古道の整備の仕方には、心がある」と。

今回 人数の関係で登山口から五条行きのバス停まで足が確保できなかった。
十津川村のバスを特別手配してもらって、命拾いしたのだった。

川津でバスを待つ間、バス停前の雑貨屋のストーブに当らせてもらって、part2へ思いをはせた。


--------------------------------------------------------------------------------



2005年11月29日

晩秋の熊野小辺路を歩く。part2

三浦口11:45―――三浦峠14:25―――矢倉観音堂16:00―――西中16:50着

--------------------------------------------------------------------------------
part2は小辺路核心部ともいえる、果無峠越え。
果無山脈とはロマンチックな名前だが、伝説に由来するそうだ。
この山に住む「いっぽんたたら」は、12月(ハテ)20日になると旅人を襲って喰った。だからその日になると、旅人の姿が絶えた(ナシ)・・・・

中辺路を歩いた時、屏風のようにたちはだかる果無山脈をみて、果てしない山なみとは何と詩的な名かと思ったものだ。
大阪を7:30に出て、三田谷の集落で11時過ぎ、宇江さんと落ち合う。

このあたりは、平維盛ゆかりの地とされ、屋島の戦いに敗れた維盛が吉野の山中を流浪の果て、このあたりで生涯をとじたと、伝承されていて墓がある。

南朝の大塔宮護良親王にまつわる哀史や、近世の天誅組の悲劇など、歴史的な興味もつきない所なのだ。

十津川は明治22年未曾有の大雨で氾濫し、土砂崩れで堰き止められた湖が大崩壊して、2次災害を起こし、十津川村では170人の死者と甚大な被害をもたらした。
生活の基盤を失った住民600戸2500人が、北海道に移住した。

後日談として宇江さんが語るところによれば、開墾の段階では山人としての本領を発揮したのだが、農業には不慣れで、せっかく手に入れた土地を手放す人もいたのだそうだ。
  

そんな語りを聞きながら、石畳をたどって行くと、うっそうたる植林の中に、異様な樹形をした杉の古木が整列している。
吉村家の防風林跡。
  
  
陽だまりで昼食をして、宇江さんは引き返す。ほら貝の音を残して。
三浦峠には休憩所や案内板が整備されていた。鹿よけのゲートをあけて山道にはいる。仲間の一人が前このあたりを歩いた時、鹿よけの網に足を絡ませた鹿がいた。おびえる鹿を網からはずして、逃がしてやったそうだ。
「鹿の恩返し」があったかどうかは、知らない。宇江さんの本にも、植林と食害との折り合いの難しさが書かれていた。

 
やや単調な山道をくだり、典型的な十津川民家の前庭にでた。雨の多いこの地方では、軒先に30cmほどの板を垂直にうちつけてある。
無人の家のようだった。

車道と合流して、宇江さんのほら貝の出迎えを受ける。

車で移動して、十津川温泉民宿の星空の露天風呂で、癒された。


--------------------------------------------------------------------------------



2005年11月30日

昴の郷8:00―――天水田10:00―――果無峠11:30―――熊野本宮15:15

--------------------------------------------------------------------------------
小辺路最後の行程。昨日の西中バス停から蕨尾まではほとんど古道の痕跡は残っていない。
この間7.3KMはカットして、今朝は「昴の郷」からスタートする。
         
つり橋を渉るといきなりの急登になるが、もっとも古道らしい風情が残っているコース。ほどなく果無集落にでて、視界が開け、昨日越えた峠も遥かかなたに見える。自分の歩いた道を見晴るかすこの時こそ、歩いた距離を実感する。
    

熊野古道のポスターにも登場しているおばあちゃんが、丁度野良仕事に出かけるところだった。干し柿のさがった縁側は、絶好の被写体だ。
Tさんは庭先にあった棒を、「杖に」と貰ってしまったけど、それっておばあちゃんの必需品だったんじゃないの?
        
少し角のまるくなった石畳を歩いていると、自分の世界に入り込んでいった。

17年も前、右も左もわからずに入った山の会で、手ほどきしてくれたのが「Inaちやん」だった。
実業団の相撲の選手だったという彼は、少し太めだけど、パワーがある。人なつこい笑顔で、本物のちゃんこ鍋をふるまってくれて、クラブにはなくてはならない人だった。
百名山をめざしていた私たち3人組と、なぜか馬が合ってよく一緒に山行した。
師匠だと思っていたのに、彼が単身赴任をきっかけに体調を崩してから、立場が逆転した。

心臓肥大で医者から止められても、訓練すれば体力がつくと、彼は私たちとの山行を望んでいた。
「病気を治してから行こう」と、断った私の気持ちの中に、山で面倒な事になったら困ると思っていた事は事実だ。

あの時の彼の寂しい気持ちを思うと、今でも居たたまれないほど申し訳ないと思う。天国へ行ってしまった彼に詫びる事もできない。
お墓におまいりすることもできず、あれから5年も経つが、気持ちの整理がつかない。
   

そんな気持ちを反芻しながら、石仏の道をたどると、やがて果無峠。

  

昼食をとって、ひたすら熊野川めざして急降下する。民家の庭先を抜けると、八木尾のバス停に到着。熊野川がおだやかに流れていた。

硬い舗装路は足にこたえるが、年長のSさんは疲れを知らない。年を重ねるごとにパワーアップするとは恐るべし。

やがて三軒茶屋で中辺路に合流した。熊野本宮に無事ゴール。
古道を歩くとは、古の 祈りの路・くらしの跡をたどること。
歩く事の原点を知ることだった


--------------------------------------------------------------------------------


| コメント (0) | トラックバック (0)